[#表紙(表紙.jpg)] 小川内初枝 緊 縛 目 次  緊 縛  見ていてあげる [#改ページ]   緊 縛 [#5字下げ]1  粟だった肌を、男の手が無造作につかんだ。たるんだ薄い皮膚が、男の指の下でぐにゃりとつぶれる。 「首は落としてるけど、首の皮が出てるとなんだから、胴の中に押し込んで……」  男の手が肌の上をもぞもぞと動く。隣の若い女が、気の抜けた微笑みをその手に注ぐ。 「次に、こうやって……」  男は女に語りかけながら、腹の真中にぱっくりと口を開けた裂け目に、やおら指を突っ込んだ。内臓はあらかじめきれいに取り除かれているらしい。男は両手の指で、裂け目を心もち押しひろげた。淋しい穴が拡がる。 「中をきれいに拭くんだよ」  男は神妙な面持ちで穴をまさぐった。女は、はい、と頷いたまま、ただぼんやりと立ちつくしている。男は、微かに水気の染みたキッチンタオルを穴からそろそろと取り出した。 「じゃあ、次は、しっかり縛るんだ」  男は、ももを胴にぴったりと添わせ、手羽を背中で組ませて全体を小さくまとめ、たこ糸で縛り始めた。 (あ、私や……)  私は思わず呟《つぶや》いた。さっきまでの私だ。  なんで七面鳥料理じゃなくて、ローストチキンなんだろう、不景気のせいだろうか、確かに鶏肉の一羽買いは割安なわけだし、などという散漫《さんまん》とした思考は消し飛んで、私はテレビの画面に見入った。  鶏肉がたこ糸で縛られる様子がもの珍しいのではなく、今、こうして私がそれを見ていることに、妙な感慨を覚えた。  ももの先の細い部分に糸がくいこむ。あわいピンク色にてらてらと光る肌がよれて、みじめな細かい皺《しわ》が無数に現れる。 「なんだか、痛そう……」  相変わらずぼんやりと立ったままのアシスタント役の女が小さく呟いたのを、マイクが拾った。 (そんなわけないやん。痛いとか、そんなんとちゃうねん)  私は、料理番組に似つかわしくない、そしていかにも若い女の言いそうなそのコメントにむっとして、胸の内で毒づいた。 「ね、こうして、ちゃんとお行儀よくさせるんだ」  料理のプロではなく、タレントが本業である男は、料理が得意であるといっても、やはりきちんと縛れたことにほっとしたのか、晴れ晴れとした笑顔をこちらに向けて、手元の鶏の肌を撫でた。  そう、さっきまでの私。  たまらなくなって、 「ねえ、利明。ねえってば」  と声をあげた。鼻にかけた甘え声。だが、いくら体を揺すっても、利明はベッドの上で小さくうなるだけで、壁を拝んだ姿勢のまま、目を覚ます気配はない。 「ほら。ねえ、見てよ」  重たげに体を揺らしながら利明が寝返りを打ってこちらに向いた。私は一層激しく腰をつかんで揺する。 「なに?」  薄目を開けた利明に私は、ほら、ほら、と勢いづいてテレビの画面を指さした。 「ほら、ね、私」 「ああ」  と力なくテレビに目を向け、すぐにがくりと瞼《まぶた》を閉ざし、利明はまた深い眠りに落ちたようだ。 (ねえ、もう一回しよう。してよ)  取り残された私は、その言葉を呑み込んだ。  鶏は塩とこしょうを体じゅうにすり込まれ、玉葱、にんじん、ローリエにふち取られて、オーブンの中へと消えてゆく。  さっきまでの私は消えた。からだの中に深い穴のようなため息が拡がる。  ベッドサイドのほのかな明かりは、利明のきれいに揃ったまつ毛と、眉間からまっすぐに伸びる高い鼻梁に濃い影をつくり、テレビから放射する明かりは、画面のふちにうっすらと積もる埃《ほこり》を浮き上がらせていた。テレビばかりでなく、淡いクリーム色に統一された部屋は全体に埃っぽく、味気ない表情を見せている。  去年もそうだった。  去年は、わりに名前の知れたホテルのはずなのに、と驚いたものだったが、今年は、また同じホテルだと聞かされた時から、あの埃部屋かと懐かしんだりしたくらいだから、この侘《わび》しさが、案外嫌いではないのかもしれない。  小さな窓のカーテンをひくと、そこから見える景色は、アングルといい、闇に浮かぶ明かりの具合といい、去年のままのような気がした。もしかしたら、去年と全く同じ部屋なのかもしれない。  テレビから歓声があがる。見ると、こんがりと焼き上がった鶏が、画面に大きく映っている。もう、生々しさもグロテスクさも消え、ただ愛嬌たっぷりのローストチキンと成り果てている。 (もう、遅い)  今さら利明を起こしたところで仕方がない。糸は解かれつつあった。さっきまでの私は跡形もなく消え、いや、消える以前に存在すらしなかったのかもしれないが、その証拠に余韻のかけらもなく、利明は眠り呆《ほう》けている。ここ一、二年の間に肉付きのよくなった腹やふとももを、備え付けの浴衣からあらわにして死体のように眠っている。空調がきつすぎるのかもしれないと思って、後ろの壁のエアコンの下向きの矢印がついたボタンを何度か押してみたが、乾いた音がするばかりで、室温が変わる気配はない。ベッドの隅に丸まった、薄いアクリル毛布と白いシーツを利明の上に掛けてみたが、利明の足は、それをすぐに跳ね上げる。  テーブルの上のミネラルウォーターを、ペットボトルのまま喉に流すと、いくらでも飲めた。水の重みで体がふらふらと下に傾《かし》いで、テレビの前の小さな椅子に慌てて尻をつく。尻をついても、生温くなった水を飲み続けていると、これが、いずれ汗やおしっこや涙になって私の中から出ていくんだと思う。そんな無用の循環のために、たとえ喉が乾いていない時でも、水は常に飲まなければならない。  クレソンに飾られたチキンは、皿の上で、ももと手羽と胴にさばかれ、その胴は、また切り刻まれた。陰りのない男も、若い女も、チキンをおいしいと言う。かけらは、次々と口中に消えてゆく。料理番組の最後の試食でこんなに食べるものかと、水を飲みながら私は思う。だけど、チキンは消えてゆく。 「明日のクリスマス・イブに、ぜひ、お試し下さい」  という男の一言で、画面はコマーシャルに切り替わった。  テレビを消すと、利明の規則正しい寝息と、私の喉が鳴る音が、部屋の中に大きく響く。五百ミリリットル入り一本を飲み干し、私は二本目を手にしていた。ぽたぽたと口もとからしずくがしたたり落ち、濡れたナイロンのスリップがふとももに張り付く感じが、心地いい。ベッドサイドの電気スタンドの明かり一つになった部屋は、利明の寝顔がぼうっと浮かび上がるだけの、薄い闇に包まれる。  ボトルを埃《ほこり》だらけのテーブルの上に置き、シガレットケースに手を伸ばす。ライターのかちりという音で、利明はううん、とうなりながら目を覚ました。なんで、と私は思う。 「美緒、なんだ、まだ起きてたの」  寝起きの利明の瞳は、なぜか二重の瞼《まぶた》の奥に深い陰がさして、それが妙にきれいだった。このごろ、その瞼にも無用な肉がつき始めてはいたが、それでも相変わらず私は見とれた。 「うん、なんだか眠れない」 「もう一回したい?」  えっ、とわざと声をあげる私に、利明は、うそうそ、と言いながら背を向け、壁に向かって体を丸めた。 「美緒も早く寝ないと。明日は朝、早いんだし」  うん、と呟きながら、利明の背に向かって煙草の煙を吐き出した。もう寝息をたてている、その背がむしょうに腹立たしく、淋しい。 「ねえ、ねえ」  煙草を灰皿に押しつけ利明の体にまとわり付いた私を、身をよじって避けながら、利明は小さくあくびをし、さっきしただろ、と壁に向かって寝言のように呟いた。 (それで、ええの?)  私は利明の背に問いかける。すう、すうという寝息が聞こえる。シーツを掛けると、利明の足がまたそれを跳ね上げた。  七年になる関係で、縛られたのは、さっきが初めてだった。ずっと縛られたいと思っていた。痛いのも、気味の悪いのも、恐いのも嫌だったが、縛られることには、なぜか執着があった。それも、頑丈そうなロープなんかではなく、例えば、ネクタイとか私のスカーフとか、そんなもので、さりげなく。  ベッドの利明の脇に滑り込むなり、利明が私を抱きしめるのは分かっていた。私は、風呂あがりに、旅行かばんからひっぱりだしたスリップを着け、髪にドライヤーの熱風をあてた。煙草を吸い、ユニットバスの手洗いでうがいをし、おもむろにベッドに向かう。  いつも通り、利明は、私のスリップとショーツを慌ただしく脱がして、自分もそそくさと裸になり、若々しい男の子のような、唐突で力強く爽《さわ》やかなセックスをするはずだった。挿入までを、少しでも長く、ゆっくりとたのしみたいという気分は利明にはない。私が利明の体を愛撫する隙《すき》すらも与えない。三十三歳から四十歳になった利明は、世間並みに衰えて前戯に凝《こ》るかと思いきや、この七年、変わることがない。二十五歳から三十二歳になった私は、日に日に前戯にこだわり、指や舌を使う利明の姿を夢想する。長く長く、舌や指先や腕全体や足で繋《つな》がっていたい。逞《たくま》しい挿入は、確かに気持ちいいものだけど、果ててしまえば、何事もなかったかのように利明の体は離れてしまうのだから。  私は利明の脇に滑り込んだ。寝息をたてていたはずの利明は、むくりと体を起こし、私の体の上にまたがるなり、私のスリップとショーツを剥ぎ取った。私はされるがままに重石《おもし》のように横たわっている。手早く浴衣の帯を解き、裸になる利明を物憂《ものう》げに見つめる。利明が、私の目を見すえたまま、左半身だけを大きく傾け、ベッドの下の、さっき脱ぎ捨てた浴衣の帯をつかみ上げた。 「縛らせて」 「えっ」  利明は私の返事も聞かず、私の両手を引っ張りあげて上体を起こし、体の向きを反転させて、私の両手首を背中で組ませていきなり縛り始めた。  枕を見つめながら胸がざわついた。利明の左手は、帯が落ちた場所を的確に把握していたらしい。探ることなく、目をやることもなく、見事につかみ上げたのだから。とすれば、最初から縛る気だったのだろうか。その帯で縛る気で、帯が落ちた場所を、落とす時から、把握していたのだろうか。いつから? 今日、東京駅で会った時から? 私は、いつから、縛られる女として、利明の前にいたのだろう。  あっという間のはずなのに、私の頭の中は、忙しく回っていた。  私は縛られて、どんなことをされるんだろう。利明は、どんなことをするのだろう。  利明は、股を開き両膝をついてベッドに立っている私の前にくるりとまわり込んで、私の腰をつかんで持ち上げながら、股の間に自分の体を滑り込ませた。そうやって利明の腰を跨《また》いだ途端、固いものが、もう私の陰部にあたっている。驚く間もなく、挿入された。  利明の腰の上で私の体が跳ね上がる。単に後ろ手に手首を縛られただけの私の上体が跳ねる。こんなはずじゃない、と思いながら、体が揺れる。利明は私を縛ったことなど忘れたかのように、ただ腰を突き上げる。いつもと要領が違うせいか、ベッドについた膝に力を入れても、バランスをとりかねて、私の体は利明の上に倒れ込みそうになる。腹に力を入れて、それに耐える。  何度か倒れ込みそうになった時、利明は、腰を動かしながら、いともあっさりと帯の端を引っ張って、私の縛《いまし》めは解かれた。ふわりと自由になった両手が思わず利明の腰をつかむ。  ふと淋しくなった。ずっとずっと、縛られることを夢想していたのは何故なのだろう。縛られただけじゃ、ちっとも気持ち良くはなかった。利明は、どうして縛ったりなどしたのだろう。今まで通りのセックスではもの足らなくなった挙げ句の、気まぐれなのだろうか。  放出した利明は、いつも通りに、あっさりと寝息をたて始めた。こなすべき習慣のようなセックスを済ませ、深い眠りに落ちてゆく。取り残された私は、煙草を吸い、水を飲み、テレビをつけ、音量をしぼる。そのテレビに縛られた鶏が映った。鶏は、男の手になぶられ、糸で固く縛られ、これ見よがしに私の目の前にその体を横たえる。私は、その姿に嫉妬し、欲望しながらも、もう一度利明を目覚めさせる手段に使えないかという姑息《こそく》な思考にいきりたつ。寝ぼけまなこの利明にとっては、網膜に影のように映る、単なる鶏でしかないものを。  わらえる夜。ひとりでに口が呟《つぶや》いた。  カーテンの隙間から漏れ入る光は、文字通り燦々《さんさん》として、テレビやらテーブルの上やらの埃《ほこり》を白く浮き立たせている。  朝の光がいいものだと、ここ数年、ようやく思うようになった。そういえば、むかしは、その光を遮光《しやこう》布のカーテンで頑《かたく》なに遮《さえぎ》って、夜の続きにこだわったものだった。男の体がどうしても要《い》るのは変わらないはずなのに、いつまでもどろどろと男の体にまとわりつきたいはずなのに、この頃は、どうして、あっさりと屈託のない朝の気分に馴染《なじ》んでゆけるのだろう。どうして、その方が気が楽なのだろう。  私はベッドからそっと抜け出し、カーテンを開けた。一気に朝の光が部屋じゅうにこぼれる。利明が、私の一人暮しの部屋で、まとわりつく私を置いてカーテンを開け伸びをしたように、私はホテルの部屋の窓際で、大きくあくびをした。  小さくうなりながら、利明がこちらを向いてうっすらと目を開けた。おはよう、と言いながら、次第にまつ毛の奥の瞳の色を深めてゆく。 「おはよう」 「美緒、早いね」 「うん、だって、せっかくの東京だから」 「まるで子供だな。ちゃんと眠れたの」 「まあね」  椅子に腰を下ろして足を組み煙草に火を点け、煙を吐き出す私に向かって利明が言った。 「煙草の銘柄、変えた?」 「ううん。どうして」 「その煙、臭いから。前はそんなに臭くなかったような気がする」  煙草を吸わない利明は、割にヘビーな私に文句の一つも言わず、俺が止めろなんて言う権利はないんだし、と言い、よれよれのシガレットケースを使っていた私に、若い女の子が好むブランドの、ピンクに染めた革のケースを贈ってくれたりさえしたものだったが、今は止めろ、と言う代わりに、その煙が臭い、と言った。一度でも止めろ、と言われたかった。言われても、止める気は毛頭ないにしろ、そういう束縛をされたかった。今さら、臭いなんて言われたくはない。  過去と現在を常に比べてしまうのは、私が歳をとったせいか、それとも今のこの環境が私にそうさせるのか分からないが、私は、とにかく意地になって、煙を肺の奥深く吸い込み、天井を睨《にら》みながら吐き出した。 「朝はどうする?」  利明の声は、朝らしくのびやかで暢気《のんき》だ。 「すぐそこにファストフードのお店があったでしょ。そこでいいんじゃない。ホテルのは高いし」  去年も行ったんだっけ、と思いだし、私の口からふっと笑いが漏れた。  クリスマス・イブの前日の、つまり祝日の午後に新幹線で東京駅に着き、ホームで出迎えてくれた利明に伴われて地下鉄に乗り、利明が予約を入れた秋葉原のホテルに荷物を置いて、何となく部屋の中で時間をつぶすうちに夜になり、今日は疲れてるだろうから遠出は明日にしようと言われて、ホテルのすぐ近くの居酒屋に連れていかれたところまで、そっくり去年の再現だった。  そして去年のイブの朝は、八重洲口に夕方六時半の待ち合わせを確認し、迷子になるなよ、と言い残してホテルから出勤した利明を見送ったあと、一人で朝食を摂りに出掛けたのだが、今年は、会社が休みである利明と一緒にそのファストフードの店を訪れる。今年はそこがちょっと違う。そして昨日の晩、縛られたことも。そんなことなどいちいち覚えていない利明は、微笑む私に向かって、何となく微笑みを返してみせる。 「腹へった」  ベッドの中で利明が言う。 「うん」  私はおもむろに煙を吐き出す。そして、また深く吸い込む。利明は、焦《じ》れた目をして私を見つめる。 「煙草なんて吸ってないで、出かける用意したら」 「利明だって、まだ寝てるくせに」 「俺なんて、すぐに出かけられるだろ」  火を消して立ち上がり、化粧品が入ったポーチをつかんで洗面台のあるユニットバスに向かう私の背に、利明が、せっかくイクスピアリに行くんだろ、とたたみかけた。  去年の滞在三日目に行ったヴィーナスフォートも、今から行くイクスピアリも、私が仮りに東京に住んでいたとしたら、行こうとは思わないだろう。ものぐさで人ごみの嫌いな私は、利明の提案をにべもなく断ったに違いない。  顔を洗い、化粧を済ませてユニットバスから出ると、利明がベッドの上で半身を起こし、テレビをぼんやりと見つめていた。落ちた肩のあたりに疲れがにじんでいる。 (ごめん、いい歳をして、クリスマスやなんて)  と胸の内で呟いてみる。  ものぐさな私が、クリスマスだとか誕生日だとかのイベントに振り回されるのは、そもそも大学の四年間を通して付き合った男のせいだった。面倒くさい、と言いながら、そういう行事を振舞われることに、いつしか馴染《なじ》んでしまっていた。その男と別れてから利明に落ち着くまでの間に、確か五人ほど男が代わり、その間にクリスマスが三回訪れたが、三回とも、他の女と過ごさなければならない男だったり、パーティーの準備をして自宅で待つ家族がいる男だったりで、妙にみじめな気分に浸ったりした。その間つちかわれた執念みたいなものが、今にいたる。  家族に苦しい言い訳をしつつも、私をかまうことを、当然の義務のように、まるで家族サービスのようにこなしてきた利明は、根気よく、七回目のクリスマスを私とともに過ごそうとしている。地元では、ちょっとまともなレストランに食事に行く程度ですんだものが、利明が去年の秋に東京に転勤になったせいで、たいそう面倒な行事になっていた。一晩ですむものが、わざわざ新幹線に乗ってまで往復するのだから、と三日にも四日にもわたってしまうことになった。三日も四日もホテルでじっとしているわけにもいかないから、どこかに出掛ける羽目にもなる。 「利明も、顔を洗って」 「ああ」 「私、服を着たら、もう出掛けられるもん」  のそりと利明がベッドから立ち上がる。その拍子に黒く、艶やかで、少しくせのある髪が額に垂れる。思わず利明の体にむしゃぶりつくと、利明は、ほらほら、といった感じで私の肩を両手で軽く押し返して、浴室に消えていった。  地下鉄を乗り継いで、銀座の駅に降り立った。地上への階段を昇りきるとすっかり夕闇がたれ込めていたが、寒波襲来のさなかの大阪を出てきた身にとっては、東京の夜は、まだ人心地があるようだ。  手には、去年と同じ女友達二人への土産をぶら下げている。利明も、去年と同じように、仕事納めの後、帰省して会う二人の子供へのプレゼントを早々に買い求め、手にぶら下げている。東京に単身赴任して以来、利明は、〈家族〉を迷いもなく私の前面に押し出すくせを持ったようだ。  去年ヴィーナスフォートで買ったのと同じような土産物を無意味に前後に揺らしながら、私はキツネにつままれたような気分だった。  ヴィーナスフォートもイクスピアリも、私の目には、全くと言っていいほど、〈同じ〉ショッピングセンターだった。  同じような店が建ち並び、同じような色合いで、同じような高い天井で、同じような人ごみで、同じような買いものをした。  そして、その後、銀座に降り立つところまで、去年と同じだった。 「晩ご飯は、どんなお店?」  去年、利明は、晩ご飯は銀座にある店を予約してるからね、と言い、そのことさらに銀座を強調した口吻《こうふん》が、オノボリサンめいていて、私は笑ったものだった。 「去年と同じ、あのイタリアンの店」 「ええっ」  驚いて思わず声をあげた。どうして、よりによって同じ店なんだろう。私は、首の骨も折れよとばかりにうなだれた。 「美緒、去年、気に入ったって言ってただろ」 「でも……」  気に入った、とは、普通に言う言葉だろう。わざわざ、年に一度のオノボリである私が、またこの店に連れてきてね、というほどの意味があろうはずがない。だが、これ以上は無用な会話である。すでに去年と同じ店は、きちんと予約されてある。 「あの店じゃ、嫌なのか?」  不満気な利明の顔がぼそりと呟く。 「ううん、あのお店、美味しかったね」  私は首を起こし、前後の脈絡を無視した、くったくのない笑顔を見せる。非常に廉価《れんか》なわりに口当たりの良い料理が出るせいで、去年利明がたまたま本屋で手にした東京ガイドブックに名を連ねていたのであろう、その店の名前を思い出そうとしたが、出てこなかった。 「そうだろ」  利明は、面倒なのか、鈍感なのか、いとも簡単に納得顔になる。  私は見覚えのある道を、人ごみにもまれ、肩をこづかれるようにして歩いた。去年と同じ道沿いにクリスマス・ツリーが飾られていた。同じ四つ辻に、瞳の青いピエロが立っていた。それはそれで、心が落ち着くものかもしれない。 「このあたりじゃなかったかなあ」  駅から十五分ほど歩いたあたりで、私が雑居ビルの小さな看板が縦に並ぶ頭上を見上げるように呟くと、 「よくわかるなあ」  と、利明が言った。 (そら、去年と同じ道順やねんから)と胸の内で応える。 「ほら、やっぱり、ここよ」  岩城、と書かれた看板を見て思い出した。イタリアンなのに、なぜか日本の名前がついた店だった。 「そうだ、そうだ」  色とりどりのポスターやらメニューやらが貼り巡らされた小さなビルの入り口を奥に歩き、古びているせいかうす汚れて見えるエレベーターに乗って、五階で降りる。  重い木の扉を開けると店の中は、私よりも確実に一まわりは若いであろう男の子女の子で満たされている。そういう中で、物怖じもせず、恥ずかしげなそぶりも見せない、私よりもさらに八歳上の利明の堂々とした態度に感化され、今は、そういう利明を頼もしくさえ見つめる。もっと言えば、歳相応にアダルトで、高級感のある店に連れていってくれるなら、なお頼もしい。だが、それは、互いの経済が許さないのだから、私の妥協点はやはりここにある、ということになる。  窓際の〈特等席〉に案内された。利明の誇らしげな顔も去年通りだ。 「きれいね」  私は窓の外を見つめながら言った。道頓堀の川沿いの店から覗《のぞ》くのと同じような電飾の氾濫《はんらん》のさまは、去年のテーブルの一つ右隣からの見覚えのあるアングルだ。  白っぽく開放的な雰囲気や、ニスを塗りたてた木の壁、明るい色のテーブルクロスはよくあるリストランテといった感じだが、ビルの一室のせいか、天井が異様に低く、店いっぱいに客の話し声が濁音となってこもり、その絶え間ない雑音に漂いながら自分の姿を消してゆけるような安心感がこの店にはある。グラスが空くごとに利明の手で注がれる白の辛口ワインの酔いも手伝って、私は伏し目がちだった目をあげ、去年と変わらない店をそっと見回した。その途端に、若くてきれいな女の人が利明の視界にいないかをチェックする長年の習慣を思わずこなしてしまい、目を戻した私はグラスを慌ててあおった。  生ハムやらプロバンス風に調理されたタコの細切れなど五種類ほど盛り付けられた前菜、活けズワイガニのサラダ、クリームソースのスパゲッティ、乳飲《ちの》み仔羊の鉄板焼き、デザート、コーヒー。少しアレンジはあるのかもしれないが、食べた感じは、去年のクリスマス・メニューと一緒。おいしかった。ワインもおいしかった。 「ローストチキンじゃなかったね」 「は?」 「ううん、何でもない」  はああ、うまかった、と利明が大きなため息をつく。健全な肉体に健全な魂が宿るのだったか、健全な精神が健全な肉体にとりつくのだったか忘れたが、おまけに利明は、線の細いきれいな輪郭の顔に深い色の瞳と高い鼻梁を持ち、私とは比ぶべくも無い高偏差値の国立大学を出、大企業に勤め、大企業だけにそうそう出世ははかどらないが、迷いのないこころの持ち主である。月曜から金曜まで習い事がある二人の子供と、今や妻のスーパーへの買い出し専用となったドイツ車のローンと、バブルのさなかに買ってしまったマンションのローンをかかえ、こづかいさえままならなくても、そんなことで迷わない。と思うのは、私のひがみか、それとも私が何も分かっていないだけなのか。 「明日の朝、早いんだ」 「うん。会社は、七時半に起きれば間に合うんだっけ」 「いや、出張だから、もっと早い……。えっと、七時前にはホテルを出るよ。美緒はゆっくり寝てるといい」  利明はコーヒーをずずっと啜《すす》った。私はグラスに半分ほど残ってしまった生ぬるいワインにちびちびと口をつけていた。 「どこに行くの」 「京都。久しぶりに帰るんだ」  大学四年間を過ごした京都に向かう時も〈帰る〉。大阪市内の私の一人暮しのマンションに来るときも〈帰る〉。無論、私の隣の市で暮らす妻子のもとに帰省する時も〈帰る〉。千葉県にある会社の男子寮に帰宅する時も〈帰る〉。高校時代までを過ごした、今も両親が住む四国・松山の実家に向かう時も〈帰る〉。あちこちに居場所があってうらやましい、と思う。  漱石の『坊っちゃん』でしか、松山の言葉は知らなくて、それはなんだか独特の言葉だったような記憶があるが、利明は、出会った時から、標準語のような話し方だった。そして、その言葉でどこにでも馴染《なじ》むようだった。大阪で生まれ育った私は、利明の前で大阪の言葉を使うことを、時に恥じた。ベッドの上で特に恥じた。標準語の男と関西弁の女との睦《むつ》み言葉はかみ合わない。 「私も一緒に新幹線に乗る」 「だめ」 「なんで? 私も同じ方向に帰るのに。おかしいよ」 「だめ」 「なんで? なんでだめなん? 一緒に乗る」 「上司と一緒だから、それは無理」  いい子だから、と後頭部のあたりをイヌのように撫《な》でられる。うれしい。一まわりも下の若い男女の小馬鹿にしたような視線を想像して恥ずかしがったりしない。利明はうらやましいくらいにいつも堂々として自信に満ちている。だから私もどうでもいいことを気にしない。 「もっと撫でて」  頭をつき出す。隣のテーブルのダブルデートらしき若い四人組のあたりから高い笑い声が起こる。多分、私に関係ない。 「美緒は、ほんと馬鹿だな」  利明はきれいな瞳を細めて優しく微笑み、ふっくらと女のように柔らかい手を私の後ろ頭に押しつけた。  縛ることもなく淡々といつも通りのセックスをこなした利明は、すぐに深い眠りに落ち、翌朝早くにホテルを出ていった。  私は、一つ一つの動作の合間に喫煙タイムをいれながら、長い時間をかけて帰り支度を調えた。利明の妻の名で泊まったホテルをチェックアウトする時に、来年のクリスマスもこのホテルだろうかとちらりと思った。利明の会社の福利厚生の一環でこのホテルとの契約があるらしく、家族割引で二泊三日を一万円と少しで泊まれた。客室へのエレベーターは、ちょうどフロントからは死角になっていて、シングルルームを予約して、こっそり二人で泊まるのにはもってこいである。多分、来年もこのホテルだ。電気屋街のはずれに屹立《きつりつ》する赤レンガを、自動扉を出て見上げた私の口は、なぜか小さく笑っていた。  十時前の新幹線に乗り、富士山が見える頃、目尻に涙がにじんだ。去年は、私の乗った新幹線が東京駅のホームを出る頃には泣いていた。私のマンションから出てゆく利明の背中を見送る時は、涙なんて出ないのに。旅愁というものだろうかと、ハンカチで顔をこする。  次に会うのは、多分、二月あたりだろうか。いや、三月になるかもしれない。利明の都合次第で、大阪の私のマンションに〈帰ってくる〉のを私は待つばかりだった。私が日時の確約を主張できるのは、私が上京することを恒例にしてしまったクリスマスだけなのだ。  本当は、東京のクリスマスにも飽きて、来年は大阪で過ごしてもいいと思わないでもないが、そうなれば、俄然《がぜん》、利明の都合次第という名目のもとに日時のあいまいな帰省になってしまって、クリスマス・イブ当日をともに過ごせるのか覚束《おぼつか》ない。利明は私のように、仕事を休んでまで、日時を合わせることなどしない。そもそも、同じホテルに、同じ店なのだ。東京で暮らし始めた利明にとっては、私を喜ばすことに腐心する謂《いわ》れなど、もうないのかもしれない。  新大阪の駅に着き、見慣れた大阪の空を見上げた。高層ビルでところどころ切り取られた空だけど、東京ほどぎざぎざじゃない。それがどうということもない。大阪にしか住んだことがないというだけで、大阪に愛着があるわけでもない。  どこに住んでもこれといった支障をきたさないはずの私が、利明を追って東京に移り住まないのは、利明にどうしようもない愛着があるわけではないから、だろうか。  ホームを歩く。肩から提げた旅行かばんが、ゆらゆらと揺れる。足取りが、東京の地を踏むよりも颯爽《さつそう》としているようで、おかしい。富士山を見ながら確かに泣いたはずなのに。 [#5字下げ]2 「ほらあ、おかあさん。また遊んでる。ちゃんとしてや」  私が声を荒げると、母はなぜかうれしそうに、 「ほんまに、小姑が帰ってきたら、しんどいこと」  と言いながら、体だけを右に左にむやみに動かして、 「おかあさんの右腕はねえ、黄金の右腕やさかい、こんな大掃除なんかに、つこたらあかんねん」  と続ける。去年と同じ会話を今年も繰り返すのだ。  出来の良いしっかりした子供→優等生の娘→小姑  という図式は、ごくありふれた成長過程なのだろうが、私は、小姑みたいやわ、と母に言われるたびに、まるで小さな子供のように稚拙な安心感を覚える。  他にも合い言葉はある。 「美緒は長女やけど、おかあさんは、末っ子やし」 「三十(歳)も五十(歳)も変われへんしなあ」 「老いては子に従え」  その時々で使い分けるのだが、割りに母は上手く使う。母のほうが、飛躍的に成長した証《あかし》だろう。  東京から、まだ寒波の去っていなかった大阪に帰ってきた途端に、私は風邪をひき、鼻の皮がむけるほどの鼻水とひどい咳に悩まされながら会社に通ううちに、ますますこじらせ、仕事納めの晩に発熱は済ませていたが、いまだ治りきらないでいる。  だが、年に一度の帰省である。おまけに大掃除という大事な年中行事がある。体調のせいにはできない。私は、辛い体をなんとか励まして、時折、小姑めかして小言をたれながら、掃除にいそしむ。母は、私の風邪を見て見ぬふりをする。  大阪府の南部に位置する私の実家まで、大阪市内から電車でも一時間とはかからない距離ながら、私の帰省は年末年始の一度きりに限られている。だからこそ、うまくいき、だからこそ、貴重なのだ。風邪だなんて言ってはいられない。この時ばかりはと、日頃のものぐさも棚に上げる。 「おかあさんは、そこのチェストの上のものを片づけて。全部、自分のでしょ。はよ、して」 「はい、はい」 「私がキッチンとリビングの掃除を済ませるまでに、するんやで。遊んだらあかんで」 「分かってる。そないにしつこう言わんでも。あんた、そない水ばっかり飲んでたら、お腹こわすで」  父と母が二人で暮らしている家は、母の荷物であふれ、まるで母が一人きりで暮らしている家のようだ。  絵の具、何かのデッサン、白いキャンバス、行き場のない作品、筆、パレット、しわくちゃの布切れ、画集、会合の案内の紙片、画材屋の置いていく見本の商品の数々。おまけに、静物画のモデルにしようとでも思っているのか、へんな形に折れ曲がった枯れ木や、葉脈だけが残って朱色の実を包んでいるほおずきや、その他諸々。アトリエと呼ぶには程遠いが、もとは私と妹の部屋だった洋室二間をぶち抜いてそれ用にした部屋があるはずなのに、整理が下手でしかも嫌いな母の荷物が、家じゅうのいたる所にわがもの顔でのさばっている。  年の暮れに帰省するたびに、私はため息をつく。まるで賽《さい》の河原の石を積むようなのだ。だが、それでこそ小姑たる私の居場所があるのだと気をとりなおす。  絵心のない私でも、母の描く風景画や静物画を美しいと思う。大掃除の最中にはそこらに転がっている埃《ほこり》だらけのガラクタにしか見えない代物も、母の思いの丈が詰まったものだと観念すると、不思議にもの悲しく、胸に迫ってくる作品になる。  緑色に重く淀んだ空に押しつぶされそうなはげ山、水気も精気もない干からびた蜜柑《みかん》を握りしめる幼な子、淫靡《いんび》な曲線を見せるざくろ……。キャンバスのまま放置されたり、安っぽい額に収められたりしながら、視線をそらす隙を与えないくらいに、それらの作品は家じゅうにはびこっている。  母が、作品を生み出す自分の右腕に〈黄金の〉という冠辞を付けだしたのは、確か、自分の所属する会の小さな展覧会に出品しだした頃だと思う。画家を自称しても作品がそうそう売れるものでもなく、〈町の絵画教室の先生〉のはずが、当の本人にすれば、やはり〈画家〉なのだ。  母の血をひく私は、写生画などは、小学校の廊下に張り出されるほどの出来ばえをおさめたが、〈想像をして描こう〉だの、〈音を色で表現しよう〉だの、創造や抽象造形の類になると、芸術センスのまるでないことを否応なく自覚せざるを得ない児童であり、図画工作の成績は、よって他の教科よりも悪かった。写実しかしない母から、私がどうしても芸術の香りを嗅ぎとれないのは、この記憶に縛られているからかもしれない。  今でこそ画家を自称し、その振幅の激しい感情を芸術家の所以《ゆえん》だと明るく言いはなつ術《すべ》を持った母も、若い頃は、派手な顔立ちをいつも暗い表情で押しつぶして、子供にあげる手も早く、取り乱すことが多いだけの人だったと思う。おまけに父の両親との同居に疲れ、いつも泣いていた。祖母は、子供の私から見ても、底意地の悪い言葉を常に母に投げかけ、母はその度に台所の隅に走っていってはそこで泣き崩れ、エプロンでその涙を押さえる。まだ幼稚園にも行かない子供だった私は、しばしばその母が心配で、手に飴玉を持って母に駆け寄り、その飴玉を差し出す前に、向こうへ行っていなさい、と涙声の母に叩かれたものだった。  そんな家庭内不和を見かねた祖父が、その家から車で三十分ほどの町に建て売りの家を買い、私たちをそこに移したのは、私が小学校に上がる年の初めだったから、もう二十五年も前のことで、母はその頃、近所の絵画教室にたまたま通い始めたのだった。どこかの芸大を出たわけでもない母は、突如習い始めた絵に、なぜか自分の生存理由と生き甲斐を見つけたようだった。  引っ越した当初から、近所では、私たち母子は、誰かの愛人とその子供といったふうに見られていたらしい。幼い私はそんな噂など当時知る由《よし》もなかったが、小学校の五年生になった頃、同じクラスの女の子に、みおちゃんて、アイジンの子なんでしょ、と言われ、びっくりしたことがある。だが、母はとうにそんな噂を耳にしていたようだ。苗字だけを記した石の表札の下に、水木という苗字を上段に記し、下段に父と母と私と妹の名前を苗字と同じ大きさの文字で(つまり上段と下段の文字列の長さを異様に悪いバランスで)記した母の手作りの木彫りの表札が掛けられた頃あたりから。その木彫りの表札が掛けられた時、きれいな石の表札だけで充分なのに、と思ったものだった。アイジンの子かと聞かれた日、学校から戻った私はその古びた木の表札を見て、ははあと気がついた。こんな表札くらいで噂なんて消せるはずないのに、と思ったことを覚えている。  父は、祖父母の家でほとんどを暮らし、ひと月に二度か三度、なぜか夜遅くにこっそりとやって来た。私は、いくら熟睡していても、父が来ると必ず分かった。父が恋しいからではない。派手な夫婦げんかがはじまるからだ。  まだ新しい家にも慣れなかった頃のある日、いつものように夜遅くにやってきた父と母はけんかをしていた。子供部屋まで聞こえてくるその絶叫に近い母の声を、私はふとんの中で、暗い天井を見つめ、トイレに行きたいのを我慢しながら聞いていた。トイレに行くには両親がいる居間の前を通らなければならないことを思えば、いくらでも我慢ができそうだった。嫁姑の確執と夫婦げんかの違いくらいは、幼な心に何となく理解ができていて、こういう場合は知らないふりをするに限ると思っていたのだから、この頃からすでに、私は横着だったのだと思う。  ふっと声が止んだ。終わったのか、と思った。私はそそくさと立ち上がり、階段を降りた。居間の前にさしかかった時、母の、何かを嫌がる声が聞こえてきた。いやだいやだと母は細い声で言い続けた。  細めに開いた襖《ふすま》の隙間から半裸の二人の姿が見えた。二人とも、畳の上でなんだか必死のようだった。だから、私も必死でのぞいた。尿意はいつしか飛んでいた。いやだと言う母の赤い唇が、そのままぽっかりと気持ち良さげに開いたのが見えた。いやだと言う母が、でも、父にいじめられているのではないことくらい、子供の私にも理解はできた。大人の不思議。多分、同級生の男の子がするスカートめくりよりエッチ。その時そんな事を思った。  私が中学生の頃、祖父が、 「お前のおとうさんも困ったもんや。美緒らと暮らせって、なんぼ言うても、どないもなれへん。おじいちゃん、こんなことになるとは思わなんで、あの家、買《こ》うてしもた。ごめんなあ、美緒。淋しいやろ」  と言ったことがある。確か、父が前の日に忘れていった腕時計を届けに行った時だ。祖母は、買いものに出掛け、父は会社から戻っていなかった。放課後すぐだから、夕方の五時ごろだったろうか。窓から見える夕焼けと、祖父がいれてくれた苦い緑茶を交互に見つめながら、 「かめへん」  と私は応えた。 「かめへんて? 美緒はそれでええんか」 「ええよ。夫婦のことは、他人にはわかれへん。あれで、うまくいってんねんから」 「他人て……。他人ちゃうやろ」 「あの人らの好きなようにしたらええ」 「おとうさん、嫌いなんか?」 「嫌いもなにもない。私は関係ない。うちのおかあさん、おとうさんが来たあと、しばらく機嫌ええんよ。最初はけんかしよるけど。なんか、一緒に暮らしたら、今度はけんかばっかりしそうな気がするわ」 「なんでや」 「気ぃ、あえへんのと違う」 「ほな、なんでおかあさんの機嫌、良《よ》ぉなんねん」 「そら、他人にはわかれへんて」  本好きの私は、その頃かなりませていた。祖父は、そういう筋書きの会話を孫としている自覚もなく、しばらくしてようやく顔を赤らめ、みっともないほどに座卓の上に置いた右手の小指を震わせた。  この子、まっすぐ育つんやろか、と祖父は小声でぼそりと呟いた。 「大丈夫やて」  私は涼しい顔で応え、不覚にもひとりごとを聞かれて慌てた様子の祖父は、そうやな、そうやな、としきりに頷いた。  その祖父は、私が大学を卒業する年に他界し、その半年後には、祖父の後を追うように祖母も逝った。最後だけは、殊勝にも祖父の後を追ったのだ。夫婦なんて分からない。  父は、祖父母の古びた家をたたみ、私たちの家に越してきた。大学を卒業して家を出、一人暮しを始めた私と入れ替わりだった。三つ下の妹は、もっと早くに家を出ていた。高校を卒業することもなく、どこかの男の子とどこかで暮らしていた。  父と母の家になったその実家に、私は年に一度帰る。油絵具の匂いのする家の戸を開ける時、なぜかただ今、とは言えなくて、小姑が来たで、などと言う。  母の執念の作品が並んでいる。下駄箱の上にも、廊下にも、部屋の隅にも。  私は年に一度、それらの作品の上に積もる埃《ほこり》をはらい、布や古新聞で一つ一つ包み、同じ号数のキャンバスごとに、縁に跡がつかない程度に緩くひもでくくってまとめ、押入や整理棚に収める。 「そないに隠してしまわんかて、ええやん」 「いつか売れる時もあるやろうから、傷がいかんように大事にせな、あかんやろ。それやし、これ片づけへんかったら、拭き掃除もでけへんし、掃除機もかけられへん」  毎年、母と私は同じ会話を繰り返す。  だが、次に帰った時には、古い作品がまたびっしり顔をのぞかせている。 「またや」 「年とったら、感受性が鈍《にぶ》なってきてなあ、昔を思いだしながらやないと、ええ作品がでけへん。この牡丹を描いた頃は、とかゆうてな」  間抜けな会話を繰り返す。私は絵を片づける。母があえかな抵抗を示す。私は掃除ができないと主張する。  家を分けてもまだ続く祖母との確執を描画に昇華させることを覚えた母は、暇な主婦がカルチャーセンターの絵画教室に通うのとは少し違った情熱を絵に傾けてきた。そうなれば、自然と道が開けるようで、母は次々に上級の師匠に師事していった。そのたびに母のこころは、家事から遠のき、子育てを億劫《おつくう》がるようになってゆく。まして小賢《こざか》しい私など、学校の成績が良いのだけが取り柄の、可愛げのない娘として、母に甘えることなど許されなかった。のびのびとして子供らしい子供だった妹は、わりに可愛がられていたような気もするが。  妹が男と出奔した頃、母が私に、 「淋しい子はセックスが早いって聞いたことがあるけど、あの子もそうやったんかねえ。お姉ちゃんに比べて出来が悪かったから、いつも周りから比べられてたしねえ」  と言ったことがある。私を大学生であった当時も今も処女だと思い込んでいる母は、私が淋しくないとでも思っているらしい。男の子からの電話なんて妹よりも多かったはずだが、私は男と交わることがどうしても嫌いな潔癖性だとなぜか母に思われている。 「出来が悪い子ほど可愛いもんよって、昔から、おかあさんの口癖やったくせに」  私は、その時、かなり不機嫌な顔をして応えたはずだ。出来が悪いと言われようが、何と言われようが、私は妹がうらやましかった。  妹に裏切られ、残った私に馴染もうとして挫《くじ》かれた母は、見る間に顔色を赤くして、 「美緒は、けったいな子やったから」と言った。「こう、いつも、観察するようなへんな目ぇして、おかあさんのこと見てたやん」  母は言い募った。  観察をしてたんじゃない。母の顔色をうかがっていただけだった。そうしなければ、エキセントリックな母に育ててもらう私の生存の道はなかったと今も思う。  だが、そこから先を続けることは、無駄であり、いや危険であるとすら思えた私は口を噤《つぐ》んだ。そして、口を噤んだ瞬間に、子供の頃とは違った目でやはり母親の顔色をうかがっている自分に自覚的になり、そうこうしているうちに、私は、明るくしっかり者の小姑になり果てたのだ。  小姑は小姑なりに進化する。  ものぐさな私が、年々荒れ果ててゆく実家のために一念発起して、大掃除の監督をしたりする。こうした滅私奉公の姿が、何よりも母を喜ばせるということを、進化の過程で知る。  母も母なりに進化している。  子育てや祖父母とのしがらみから解放されて日に日に明るくなった彼女は、今や小姑めかした娘の言うなりの、明るくお茶目な母親像をそつなくこなせるまでになった。  小姑に徹している私とこころに余裕のできた母は、今が一番しっくりいっている。 「おかあさん、そろそろお茶にしよ。手ぇ、洗いや。なにがええ? コーヒー? 紅茶?」 「コーヒーにして」  大掃除の小休止のタイミングを計るのは、無論、小姑の役目だ(といっても、煙草を吸いたいだけで、私がむやみに手を止めて煙草を吸うと、母は鬼の首を獲ったみたいにさぼりだす)。飲み物も当然、小姑がいれる。その間の会話は、当たりさわりのないものに限る。 「美緒、まだ煙草やめられへんの?」 「うん」 「ええ加減にしいや。肌に悪いねんで」 「分かってる。それより、この頃どうなん。絵の教室は?」 「それがな、最近、子供に絵を習わさはる若いお母さんが、また増えてきてんねん。はやりすたりがきつい商売やし、今のうちにせいだい、きばるわ」 「そんなきばらんかて、ええやん。もうええ歳やねんから」 「そない言うても、作品一つ作るのに、どんだけお金かかるか、あんたも知ってるやろ」  知ってるような、知らないような。確かに実費はいるだろう。あとは、所属する会の会費、会合や懇親会やパーティーに出席することに伴う出費(その都度変えなければならない衣装代を含む)、スケッチ旅行、展覧会の出品料、強引に買わされる師匠の作品の代金。 「そうやった、そうやった。なんせ、体こわさんようにしてな」 「ありがと」 「そろそろ再開しよか。それにしても、今年はえらい頑張るやん。だいぶ、片づけたなあ」 「老いては子に従え」 「ええ心がけやねえ」  二人で和やかに笑いあっていた時、リビングに入ってきた父の姿が目の端に入った。 「おとうさんもコーヒー飲む?」 「美緒、そんなに気ぃ、つこたらんでもええ」  母は父に対しては、そんなに進化を遂げていない。不仲が日常となった夫婦にけんかの種は尽きないらしい。 「どこ行ってたの? パチンコ? 住んでもない美緒が大掃除をしに帰ってきてるのに、住人のあんたが、この年の暮れに、なんで、なんもしてくれへんの」 「おかあさん、私、大掃除をしに帰ったんちゃう。一応、大晦日とお正月を一緒に過ごそと思うて帰ってんねん」  笑いでごまかそうとする私は、虚しい笑い声を一人であげる。  父は、黙ってリビングを出ていく。自分の部屋にゆくのか、また出ていくつもりなのかは分からない。彼に居場所がないのは当然だろうと私は思い、母はどう思っているのか知らないが、二人とも父の背に声を掛けようともしない。こんな夫婦でも、睦まじい瞬間は訪れる。だからこそ、同居が続くのだろう。だから私は何も言わない。 「ほんまに、お酒とパチンコに狂って。どないしようもないわ」  母は吐き捨てるように言った。  アル中気味なのかと思うほど酒を飲み、自宅に居づらいせいか休日は駅前のパチンコ屋に通い、その為に会社の給料の大半を費やす以外は、父はごく普通のサラリーマンだった。酒を浴びるほど飲んでもネコのように大人しく、翌朝は、夜が明けるのを待ちかねたようにきちんと出勤し、母の悪態にも超然としているところは、むしろ見上げたものだった。何故こうまでして、母と同居しているのか不思議な気もするが、並外れて辛抱強く、無神経で、淋しがりやなのだろうという気がする。 「ほんま、今さら別れるのも面倒くさいから、一緒におるけど」 「そやなあ、別れるちゅうのは、ひと苦労やしなあ」 「あんた、そないなこと、分かるの?」  三十を過ぎた娘に、母は真顔で訊《き》く。  私だって、人肌が恋しくて、男の肌に憑《よ》りついてしまって、ただそれだけで身動きがとれなくなることくらい、知ってる。  母がそういう意味で言ったのではないにせよ。 「おかあさん、もうええやん。二人で頑張ろ。今日じゅうに掃除は終わらすんやで」 「ほな、明日は、朝から買い物に行けるん?」 「そうや。せやから、今日じゅうに絶対、掃除はすまそな」 「ええ采配やなあ」  母が口を大きく開けて高笑いをする。唇が赤い。肌は白い。なぜか五十を過ぎてもシミのない肌。肌理《きめ》なんて、私なんかより断然細かい。  明日は私鉄で五駅向こうのこの辺り一番の繁華街に出て、そこの駅上デパートで、買い物をする。食品売り場での正月用食料の買い出しは、ほんの付けたりで、母の目的は、なんと言っても大晦日限定の婦人服特売セールだ。コートやスーツが、驚くほど安く売られていることが多い。その買い物に付き合うのも、私の役目だ。去年は確か、大掃除が長引いて大晦日の夕方までかかってしまい、母のご機嫌を損ねた。今年は、良い采配だとほめられた分、その期待を裏切ってはならない。  家族の年中行事には、それなりの意味があって、それさえ無難にこなしていれば、安心できる。隙間を埋めた気でいられる。よく言う家族ごっこというものか。面倒で、やりきれない。そのくせ、きれいさっぱり離れることもできない。血のせいか、受けついだ淋しさのせいか。  私が出た直後に改装された家に、私はいまだに馴染めない。台所と居間だった部分は、カウンターで仕切られたキッチンとリビングになった。馴染みの薄いキッチンの中を、雑巾を手に這いずりまわる。冷蔵庫の下や、食器棚や収納庫の中、ワゴンの上、いたる所にパンの粉や、醤油のしみ、調味料の空きビン、空きビンならまだしも同じ種類の調味料の使いさしが何本か、食べさしのお菓子の箱の数々が出現する。私の口はひとりでに、今日じゅうに、今日じゅうに、と呟いている。その口に、小さな虫が飛び込んできそうになって、私は慌てて口をつぐむ。生活能力があるんだか、ないんだか分からない母。淋しいのか、充実しているのか分からない私。なんだか笑ってしまう。 [#5字下げ]3  一・五リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルを三本と、インスタントラーメンの袋を三つとチョコレートを一つ買い、コンビニを出た。これくらいで足りる訳はないと思ったが、左手に下げた紙袋が重すぎて、それ以上は買う気になれない。鼻にピアスをつけた若い男の店員が、ありがとうございましたあ、と気の抜けるような声を出した。  正月二日の繁華街の西の外れは、人影もまばらで、空に垂れこめている今にも降りだしそうな重苦しい灰色の雲のせいで、まだ昼前だというのにあたりは薄暗く、それがいつもの正月の風景のような気がする。  二分の道のりが遠い。途中の自動販売機で、キャスターマイルドを四箱買った。紙袋とコンビニのビニール袋をアスファルトの上におろして、ついでにしばらく休憩する。あと数十メートルだというのに、ため息がでる。下着やら化粧品が詰まった、肩から下げたかばんを後ろに跳ね上げ背中に背負うようにして、二つの重い袋を持ち上げた。  地下鉄の駅からコンビニまで一分、そこから自宅マンションまで二分。いったん、部屋にかばんと紙袋を置いて買いものに出ても苦にはならない距離のはずなのに、そうしてこまめに体を動かすことを、私は避けることしか考えられない。  数歩足を運んで、私は道路の真中にまた荷物を下ろした。逆上しそうなくらい、重い。その時、背中から車のクラクションが聞こえた。慌てたはずみで、膝で紙袋を蹴ってしまい、倒れた袋の中から蜜柑《みかん》が一個、ころころと転がりでた。そのまま二つの荷物をひきずって道の端に避けた私の前を、薄汚れた白い車体が、悠然と通り抜ける。一方通行の狭い道に、路上駐車された車がずらりと並ぶ雑居ビルの谷間を、その白い車はスピードをあげて、瞬く間に走り去った。  目の先に、タイヤに押しつぶされた蜜柑《みかん》があった。皮が、弾《はじ》けたような形でぱっくりと裂け、中身は全て果汁になったのかと思われるほど、辺りのアスファルトを濡らしている。車輪の円周分ほどの間隔をあけて、そのシミは点々と続き、もう何年も店を閉じたままの質屋の看板を過ぎ、土埃を被った鉢植えを引き戸の前に並べ立てた小料理屋の前あたりまで続いていた。  甘いから沢山持って帰りなさい、と母が今朝、実家からマンションに戻る私に持たせたものだった。  私が家を出たと同時に始まった新たな習慣に、私は初めは戸惑った。母は、世の常の母親のふうをして、大きな紙袋に、米やら蜜柑やらハムやら佃煮やらを詰めた。 「そんなに、いらんよ。スーパーで買《こ》うたらしまいやねんから」  私はどこかくすぐったい思いで、無愛想な声を出した。 「ええから。沢山あんねんから、持って帰り」 「沢山あるて、おかあさんかて、買《こ》うたもんやろ」 「ええから」  母はへんに生まじめな表情で、紙袋を埋めてゆく。少しでも気をゆるめれば、ひとりでに自分の演技に笑いだしてしまいそうな、神妙そうな顔つきで。 「おかあさん、そんなに詰めたら重いわ」 「おとうさんの車で送ってもらったらええやん」 「そんなん、いややわ」  父と二人きりの、ちょっとした会話にさえ困る空間を想像してぞっとする。それ以上に、ほんの近い距離なのに、わざわざ車で送ってもらうという愛娘のような役割に、私はどうしても抵抗があった。自分をなくしてしまいそうで、恐いのだ。 「ぶつくさ言わんと、これ全部持って帰り」  初めは戸惑ったり、内心うれしかったりしたものが、この頃は、それも慣れっこになってしまい、単なる行事と化していた。  それが、無惨につぶれた蜜柑を見ていると、ひどく物悲しい気分になるのだから不思議だ。  私は再び荷物を手に持った。あと数十メートルにため息をつきながら、蜜柑のシミに沿って右、左、右、左、と一歩一歩に反動をつけて歩く。  蜜柑一個と体じゅうの力を失って、私はようやくマンションにたどり着いた。ベージュのタイルに覆われた、ペンシル型に細長いその建物は、私が入居した十年前は新築だったが、この十年の間、改装などしたこともないのに、なんだか、いつ見ても入居した当時のように、清潔そうな佇《たたず》まいを見せる。オートロックドアを解除しながら、やっと自分の居場所に帰ってきた気がした。  郵便受けが並ぶ前に立ち、六〇二号室の小さな扉を開ける。一フロアに二戸ずつしかない造りだから、百番台から七百番台まで、一ケタ目に一と二を交互に整然と繰り返しながら、六〇二だけが、とてつもなく物欲しげに見えた。私は、いつか思いもしないところから、私を幸せにしてくれる知らせが、ある日ぽろりと舞い込むことを期待している。何もせずに、何かを期待する邪《よこし》まな気持ちはものの本質を歪《ゆが》めて、ただの実用上の箱が、夢の箱に見える。  荷物を下に置いて、手を突っ込む。何日か分の新聞の束。案の定、輪ゴムにくくられた年賀状の薄い束。ダイレクトメールが何枚か。それだけ。  それらを紙袋に突っ込んで、私はエレベーターに乗った。  かばんから部屋の鍵をとり、ドアを開け、狭い玄関の上がり口に、荷物を音をたてて置いた。肩がみしっと鳴る。靴を脱いで、荷物をまたいで上がると、玄関からすぐのキッチンを通り抜け、その奥の一間だけの部屋に入り、そのまま座り込んでしまった。  コートも脱がずにしばし呆然とし、それにも飽きると、這うようにして玄関に戻り、かばんの中からシガレットケース、コンビニの袋からミネラルウォーターを取り出して部屋に戻り、真中あたりが尻の形にへこんだクッションの上に座る。思い出したように電話機をちらりとみたが、留守録のランプは点滅もせずに光っているだけで、メッセージなど一件も入っていない。煙草を吸い、水を飲む。煙草を吸う。水を飲む。そうしていたら、軽く一時間はたつ。そろそろ荷物の整理をしなければ、と思う頃には二時間が過ぎていた。ペットボトルの中の水は半分に減っている。  玄関に置きっぱなしの荷物を、ためつすがめつしながらようやく片づけ、またクッションの上に戻り、テレビを点ける。正月恒例の十時間時代劇にチャンネルを合わせた。今年は、『宮本武蔵』をやっている。去年は、『清水の次郎長』だったっけ、などと考える。どっちにしろ、そんなに興味はなかった。が、必ず見た。十時間もの間、一つのドラマを見続けるなんて、日頃はできないことで、それがひどく正月らしく思えて良い。誰も来ない。電話さえ掛からない。何もしたくないくせに、淋しい。かといって、大掃除をすませれば私は用ずみで、そこを押して実家に居すわるのはなんとも居心地が悪い。毎年正月二日の朝に出てゆく私を、母は当然のように笑顔で見送る。『宮本武蔵』を見ているうちに、なんだか興奮してきて、私も武者修行に出たくなった。  武蔵の剣の音を聞きながら、年賀状に目を通す。子供を真中にして夫婦二人がその両脇を固めた写真がいっぱい。子供のアップの写真がいっぱい。そんな歳なんだなあ、と正月のたびにつくづく思う。去年よりも確実にひと回り大きくなっているはずの子供たちは、どれもこれも同じような顔をしているし、友達の子供に対する愛着なんて持ちようもないせいで、正月の度に来る成長の証を確かめようもないのだが、私がもういい歳なんだという自覚を促してくれる程度の役割なら果たしてくれている。  私がものぐさなせいで、久しぶりに会おうだの、飲みに行こうだのといった彼女たちの誘いを無下に断り続け、そうこうしているうちに、彼女たちはそれぞれ結婚したり子供ができたりして、私は見切られてしまったようだ。  だが、やはり友達とはありがたいもので、本人たちはそういうつもりはないのだろうが、年に一度の交流に、私に子供の写真を送ることで、私を人並みな自覚を持つまっとうな人間に育てようとしてくれている。  子供のお披露目大会にも飽き、束を放り出そうとした時、その中の一枚に目が留まった。  その子供の顔が私に似ている気がして、写真の下に印字された名前をよく見ると、妹夫婦の名前があった。 「あっ、そうか」  自分の姪にくらい愛着を持つべきだったと、ふと自分が恥ずかしくなり、思わず声を放った。  丸顔、二重瞼に大きな茶色い瞳、ぽってりとした唇。どう見ても、細面に一重瞼の妹よりも、伯母である私に似ている。  十七歳で男と出奔した妹は、その男と別れたり、よりを戻したり、籍を入れたり、また抜いたりしながら、今は確か、また同じ籍に入っていた。要は、一人の男と別れたりくっついたりしながらも、家を出てから十年近くたって娘を生み、育て、それもまた世間的には、きちんと成長している証だろう。母がぼそりと、 「あの子が出ていった時は、世間体が悪くってどうしようなんて思ったもんやけど、今になったら、娘のうちで一人でも結婚して子供生んでくれて良かったと思うわ。二人ともぶらぶらされたら、かっこう悪うて」  と言ったことがある。ああそうか、と私も納得したものだった。いくらしっかりした娘を演じても、私は所詮《しよせん》、気ままな一人暮しを続けるはみだし者なのだ。そういう意味では、この姪は我が家の世間体を保つ救世主たる存在で、会ったことはないにせよ、愛着を持たねばならない。淋しい人にならないように、と私は写真に向かって呟いた。  だが妹の子だから大丈夫だろうと思うと急に馬鹿らしくなって、その年賀状をテーブルの上に投げ出した。  武蔵がどこかのお城の座敷牢に三年間、幽閉されることになった。うらやましい、と思う。  強制的に閉じ込められるほうが、世間に出たいという反動的な欲望と、閉じ込もる安心感の両方を手にできて、健康的だろう。  空になったペットボトルをごみ箱に放り込み、二本目を冷蔵庫から出した。このペースじゃ、とても足りそうにない。明後日あたりには買い物にでかけなくちゃ、と思うと面倒くさくて、ため息がでる。  今年は、曜日の加減で仕事始めが例年よりも遅く、一月九日からだから、今日からその日まで、一歩も部屋の外に出たくなければ、水も煙草も食料も相当に買い込まなくては、足りない。所詮、さっきの買い物ごときで足りるものでもないのだから、あんなに重い思いをして買い込むんじゃなかった。だが、外にいるついでに買い込んで部屋に籠《こ》もるという習性がそれを許さなかったのだ。  今じゃ、〈引き籠もり〉という言葉が世間で横行するくらいに、完璧に家に閉じ込もる人もいるらしいが、私の場合、一人で生計を立ててゆく必要がある以上、会社にも通い、スーパーにも顔を出す。ただ、土・日曜や連休などは、放っておけば一歩も外出しない、というタチだった。実家で暮らしていた頃は、家にいるのが嫌で、踊りに行ったり飲みに行ったりしていて、その頃の友達は、私が一人きりの空間に暮らし始めて外出を億劫《おつくう》がるようになっても、そういう私にどうしても慣れないようで、根気よく誘ってくれたものだった。私は何やかやと言い訳をして出かけず、今は言い訳を考える必要もないくらい、電話が鳴るのさえ珍しい。  自分で引き籠もったくせに、一人の部屋は淋しかった。  愛されたい、と思っているくせに愛されることが怖かった。自分が愛される存在であるとも思えなかった。  へんにませガキで、世の中や自分の人生を斜に構えて見ていたはずが、いやそのせいで、まっとうな成長過程を踏み外したのだろうか、私は今、自分では何もしようとしないまま、何もできないまま、ただ狼狽《うろた》えている。  後ろは振り返らずに、ただ前を見よ。そうは言っても、私の目の前は暗く、ただぼんやりとして、形をなくしてゆくばかりだった。  おつうの笛の音で目が覚めた。いつの間にかうたた寝していたようで、すり硝子の窓の向こうは、既に闇が降りていた。  おつうは、何を信じて、何年も武蔵を待つことができたのだろう。目を覚ました途端、うたた寝する前に見ていたのと全く同じ様子で武蔵を待つおつうを見て腹がたった。武蔵は、何を根拠にこんなにもおつうを待たせているのだろうと思うと、よけいに腹がたった。  どうして人と共に生きてゆきたいなどと思えるのだろう。人との暮らしがこわくて、だけど一人は淋しい私は一体、どうしたらいいのだろう。一人で暮らして楽しい、と十年たっても言える人の強さは、一体、どこから湧くのだろう。  勢いあまって、ボトルの口からそのまま飲んだ水が、口許から溢《あふ》れでた。1DKの狭い空間で、まともな家具と言えば、ベッドとテレビと小さな本棚しかないような侘しい部屋で、ひとりで盛り上がっている自分に気づいて、嫌気がさした。白い壁紙のはずが、長年の煙草のヤニで茶色くくすんでいる。薄汚い私がいる。ただ朽ち果てるだけの私がいる。  煙草を吸っていると、また時計の針が一廻りした。  空腹は感じなかったが、ラーメンの袋を棚から出した。ゆでること二分、食べるのに五分。味気ないと言えばそうなのだが、それ以上の手間は面倒だ。一人の食事で米を研ぐことなんて、滅多にない。だから、年に一度、実家から持って帰る米で、一年は充分もった。  食後の煙草はなぜかうまい。食後でなくても、煙草はうまい。たとえ煙が臭いと言われようがうまい。  自制しなければチェーンスモーカーになってしまうので、私は、編みかけの毛糸を取り上げる。武蔵の剣の軽快な音にあわせて、編み棒を振るう。何が編めるわけでもなく、ただ表編みをだらだらと続けてやたらと長いマフラーができるだけのことだが、私は一冬に何本もの無用のマフラーを編む。何もしたくないくせに、ただぼんやりとテレビを見ることにも疲れてしまう。編み物はちょうど良い手慰《てなぐさ》みだ。  夜中の十二時まで武蔵を見、表編みを何段か編み、私は眠りに落ちた。  インスタントラーメンも、実家から持ち帰った蜜柑《みかん》もハムも食べ尽くし、ミネラルウォーターはとっくになくなり、だが、煙草はあと五箱残っていた。年末の帰省の二日ほど前の会社帰りに一カートン買っておいたキャスターマイルドが引き出しの中から出てきた時、私の頬は、思わずゆるんだ。すっかり忘れていた煙草の出現に、外出がこれで今しばらく日延《ひの》べできると思ったのだ。水は水道水でも構わない。もともとカルキの臭いだの、味だの、私にはあまり分からない。水道水と煙草があれば、当分もつだろう。食欲が全くないわけではないが、買い物に出る億劫さを思うと、水を飲んで我慢しても構わないと思った。水ばかり飲んでいると、へんなげっぷがよく出るが、大した問題ではないだろう。  水と煙草とマフラー編みとテレビに尽きるという日が二日ほど続いた晩、電話が鳴った。 「水木、生きてるかぁ」  なんとも間のびをした声が受話器から流れる。 「あー、土井くんや。しぶとく生きてるでぇ。生きる気力がないもんは、自分で死ぬ力もないって、言うやろ」 「お前、いきなり、そんなダークな返しはないやろ。正月早々」 「わるいわるい。ほんで、何?」 「今、お前の近くやねん。なんか食いに行くか?」  土井の声の後ろで救急車のサイレンが鳴っている。私は声を張り上げた。 「もう仕事始め? 早いなあ。今日、五日だっけ」 「お前、そんな露骨に言うなよ。それやし、それを言うなら、姫始めやろ」 「ちゃうって。今、会社帰りやろ」 「うん、今日からな」 「ほらあ。まあ、ええわ。それより、何回も言うようやけど、そないにいきなり来て、他の男が来てたらどないすんのよ」 「そない見栄はらんかて、ええって。うそうそ。もしそうなら、何も言わんと帰るがな」  笑いを微《かす》かに含んだ声で土井が言った。 「誰もおれへん」  小さく、淋しげに応える。 「そうやろな」  はっはっ、と土井が笑い声をあげる。 「どないすんねん。出てくるんか? どうせまともに食べてないねやろ。おっちゃんが栄養つけたろ」 「それより、コンビニで買い物してきて」 「よっしゃ、何買うねん」 「水と、……チョコ」 「他はええんか」 「うん」  ほな、と言うなり、土井は電話を切った。  数分後インターホンが鳴り、下のオートロックを解除して耳をすませていると、土井の足音が響いてきた。どこかにぶつかりながら歩いているのかと思うほど、いろんな音をたてている。私は、土井を迎える直前の自分をいつも持て余す。足音を聞きながら、呼吸の乱れを感じている。  ドアを開くなり、くっきりとした眉を垂らして精悍《せいかん》な顔立ちをわざと崩し、来たでぇ、とおどけてみせた土井は、いきなり荷物を上がり口に放りだすなり私を抱きしめる。この切り替えにいつも私は困るのだ。 「えらい、気ぃも手ぇも早いこと」  憎まれ口をききながらも、私の声はなぜかか細い。 「いやか?」  土井はしらじらしく、私の顔をのぞき込む。そのまま、もつれるようにしてキッチンを通り抜け、部屋へと二人してなだれこんだ。 「なあ、もうちょっと落ち着いてよ」  唇の皮が剥けそうなくらいにキスをしたあとで、私は土井に言った。以前、水木はどないされるのが一番好き? と訊かれて、照れもあって当たりさわりなくキス、と応えた時から、土井のキスは常軌を逸しているようだ。だけど、その土井の気持ちがしみじみうれしくて、次の日には、顎や口角あたりの薄皮が剥けたまま出勤するはめに陥っても、私は土井のキスを受けた。ほんとは、キスも好きだし、抱き合うのも好きだし、男との全てが好きだったけど、そんなこと言えやしない。 「なんか、水木の顔見てたら、たまらんねん」  そんな甘い言葉を吐いてくれるのは、土井ぐらいなものだから、何度でも言ってほしいと思う。 「こんな、おばはんつかまえて」 「いや、水木は水木やで」 「そやかて……」 「お前、いつからそないに卑屈になってん。大学時代は、もっと、こう、のびのびしとったで。頼むから、あのまんまでおって」  土井は私の肩までの髪を撫でながら、隙を見て、じゅうたんに寝そべった自分の体の上に私を引き寄せる。 「もうちょっと落ち着いてって」  彼がどういうトラウマを持ってしまって、私に対してこんな言葉を口にするのか、私には計りかねるが、なんだか気持ちがとろんととろけるように甘くなる。  私と土井が出会ったのは、加藤の下宿部屋でだった。私は、当時、出来損ないの優等生が行くような、並みよりは上といった公立大学の文学部に籍を置き、加藤と土井は経済学部の学生だった。  一回生の一般教養の授業で知り合った私と加藤は、知り合って三日とたたないうちに付き合い始め、私はその加藤の下宿部屋に入り浸るようになった。そこに足しげく現れたのが土井だった。  私たちは、カップルプラス一というより、仲良し三人組といった感じだった。たまに部屋の鍵を掛け忘れたまま私と加藤がセックスしている最中に、土井がいつものようにやってきて、ドアを開けるなり、お前らなあ、と叫んで、慌ててドアを閉めるといった気まずいこともあったが、やはり仲良し三人組だった。当時、違う大学の女の子と付き合っていた土井は、その女の子と会うよりも、私たちと会う方が多かったような気がする。  社会人一年目の、それぞれ音信不通になっていた秋のある晩、土井から電話がかかってきた。 「なんで、ここの電話番号、分かったん?」  私は懐かしさよりも、土井からかかってきた電話に驚いていた。 「お前の実家に電話して、聞いた」 「ふうん。それにしても、ひさしぶりやな」 「まあな。それより、今、心斎橋におんねん」  後ろから聞こえるクラクションのけたたましい音や女の高い笑い声に比べて、土井の声はどこかしんみりしていた。 「えっ。すぐ近くやんか」 「そんなに近い?」 「まあな。歩いて十分くらいやで」 「ほなら、今から飲みに行けへんか。出てこいよ」 「そない急に……。でもまあ、ひさしぶりやから、行こか」  出不精の私が土井の誘いに一も二もなく応じたのは、とどのつまり、土井が加藤と繋《つな》がる人だったからだろう。  同じ会社の五年先輩である既婚者と付き合い始めたばかりだった私は、それでも加藤を忘れられなかった。  加藤を愛していたのか、執着していただけだったのか、それとも加藤に愛される自分にこだわったのか、淋しい自分を見たくなかっただけなのか、いまだにはっきりしないが、とにかく私は加藤にしがみついた。しがみつき、互いの形をなくしてしまうほどの同化を加藤に要求しながらも、私は、いつか加藤を失うことを信じて疑わなかった。私は若かったし、加藤も若すぎたのだろう。大学を卒業する頃には二人して疲れきっていた。  疲れたまま加藤と別れ、男と一対一でまともに向き合う関係に懲りながら、人肌恋しさにステディを持ってしまった私は、心斎橋の雑踏の中にいる土井の顔を見た途端、面映《おもは》ゆさに思わず深くうなだれた。 「久しぶりやなあ」  土井は明るく笑った。  だが、入った居酒屋の中でも、土井は不自然なほど加藤の名前を口にしなかった。仲が良かったのだから、卒業と同時に縁が切れたとは考えられなかったが、私から聞くことはできない。むやみに、二人して銚子を空け、終電の時間も過ぎ、私のマンションに転がりこんだ土井は、私を抱いた。  セックスのさなかは、いつになく夢中になった私が、ふと違和感を感じたのは、果てたあとに土井が私を抱き寄せた時だった。彼氏の友達、やはりそんな感じが土井にはあった。良心の呵責《かしやく》なんて辛気《しんき》くさいものはなかったが、私と土井の間には、一つに繋がれない何かがあった。二回目からは、セックスのさなかにさえ、そんな違和感を感じた。それでも十年、淡々と私たちの関係は続いている。そう言えば、利明との関係よりも長い。  だが、お互い恋人同士になるには、照れと引っかかりがありすぎて、露悪趣味めいてはいるが、私たちは互いのメインの恋人の存在を隠そうともせず、私は土井に電話をかけることもなく、デートを要求することもなく、ただ土井からの電話を淡々と受けた。都市銀行の本店に勤め、激務の続く土井は、仕事の隙をみては電話をかけてきた。そして、開口一番に言うことは、今、一人か、という言葉だった。五年ほど前に土井は結婚したが、私たちの関係に何の変化もなかった。  利明が東京に転勤になって間もない頃、受話器から流れてきた土井の声に、私はいつにない執着を覚えた。 「今、一人か」  いつものように、小声で土井は言った。 「今もなにも、もうずっと一人よ」 「はあ?」 「別れてん」  嘘をつき、すぐに我ながらせこい、と思った。 「また、すぐに新しい男、できるやろ」 「もう無理や。年やし」 「ほな、おっちゃんが慰めに行ったろ」  土井は、十年の間、変わらない。今、一人かという言葉は私が嘘をついて以来、言わなくなったが、それ以外は変わらない。新しい男ができたか、とも聞かない。何の駆け引きもない。会えば、抱きたいを連発する。それを煩わしいと思ったこともあったのに、別れる理由もないままに、ずるずると続けてきた挙げ句、私は変わらない土井に救われている。利明とのあるかなきかの関係に執着し、淋しかったり、焦ったりする気持ちが鎮められる。抱きたいと言われてほっとする。もっと言ってほしいと思う。いまさらのようにしがみつき始めた私を、土井はどう思っているのだろう。自分ですら現金すぎると思うのに、土井は何も言わない。 「私のこと、好き?」  しらじらしい言葉が、思わず口を衝《つ》いてでる。いや、計算ずくかもしれない。何も見ず、何も考えず、体を擦り合わせることだけが、私たちのまっとうなあり方だったのに、言葉が気持ちを引き寄せることを私は目論《もくろん》んでいる。 「へ?」  土井は、息をあげながら私を見下ろした。そしてなぜか、大きく腰を一振り、より深く私を突きあげる。喘《あえ》ぐ私に、もう一度、へ? と言った。 「好き?」 「うん、うん」  首を落として黙々と腰を振る土井の頭を両手で抱えた。 「どれくらい?」  今さらの少女マンガのようなくさいセリフに土井は戸惑ったのか、ただ腰を振る。 「ねえ?」  だんだん恥ずかしくなる気持ちを抑えて訊く。 「一生、ずっと、水木とセックスしたい」 「そんなんじゃ、わかれへん。どれくらい、好き?」 「う、う、宇宙くらい」 「は?」 「お前は?」 「私も」  ことが終わり、タイミングを見計らって二人してもぞもぞとベッドから這い出し、薄暗闇の中で煙草を吸いだすと、土井は、すっかり大学時代の友達の風情を見せる。抱きたい、を連呼したのも嘘のようだ。これも十年、変わらない。私はこのごろになって、セックスの後のその豹変ぶりが恨めしい。 「私のこと、宇宙くらい好きなら……」声が掠《かす》れた。「今日、泊まっていって」  土井の浅黒い顔が微妙に曇る。 「冗談よ」 「ええよ、泊まるわ」  土井の右目の下の小さなホクロを見ながら、私は小さく笑った。 「無理せんでもいいって」 「無理してない」 「奥さんに何て言うのよ」  奥さん、と発した途端、大学の同級生である土井とも、世間で言う不倫なんだなあ、と改めて感心する。 「何とでも言うよ。死なば諸共《もろとも》」  土井が薄く笑った。無駄な脂肪のない体にもっと吸い付いていたいのに、煙草をもみ消し、そそくさと下着がわりのTシャツを頭からかぶる。泊まっていけなんて言えへんヤツやったのにな、とくぐもった声が聞こえた気がした。 「え?」 「何でもない」  Tシャツの首から頭をだした土井は、いつも通りの土井である。  部屋の明かりをつけ、私がチョコレートを頬張っている横で、土井は自分で買ってきた缶ビールをおいしそうに飲んだ。テレビをつけ、深夜のお笑い番組に二人して腹を抱えて笑いながら、他に会話らしい会話もない。  日付が変わる頃、先にシャワーを浴びて煙草を吸っていた私を、浴室から出て気分を新たにしたらしい土井が、抱きしめた。ビールと煙草の匂いが混ざってなぜか納豆風味になったキスを浴びる。 「お願いがあんねん」  私は少し緊張して呟いた。  なに? という土井の顔を見ずに、その手を解いて私は背を向け、部屋の隅の洋服掛けに吊ってある土井のスーツのズボンからベルトを抜き取った。本当はネクタイが良かったが、しわくちゃにしてしまいそうな気がして遠慮した。 「これで……」  振り返って土井の顔を見た途端、躊躇《ちゆうちよ》した。 「なに?」 「縛って」  一瞬、首を小さく後ろに引いて固まった土井は、ひと呼吸おいて愛《いと》おしむような目をつくり、ささやいた。  良かった。これでぶってなんて言われたら、どうしようかと思った。縛って、それで、どうしてほしいの。水木の思うようにしてあげる。 [#5字下げ]4  仕事始めの朝、久しぶりにマンションの外に出たら、自然光の明るさに立ちくらみがした。顔に当たる風の冷たさにびっくりして、しばらく呼吸が乱れた。地下鉄で一駅の距離を二十分かけて歩き、会社に着いて席につき、久しぶりに電話が鳴る音を聞いた……。  正月を二週間も過ぎていたが、元気だった? という程度に年始の挨拶をした後、毎年繰り返す話を、土産のチョコレートをつまみながらユカにしゃべり終えた途端、二人の口から同時に大きなため息が漏れた。 「で、おかあさんとはうまくいった?」  気をとり直したようにユカが言う。 「うん。このごろはコツもつかめたし、正月は無事に済ませてん。おかげさまで」  コツがつかめず、居心地がわるいとは思いながら四日も五日も正月休みを実家で過ごしていた頃は、しまいに母と大げんかをしてマンションに戻るということもしばしばで、それをユカは思い出しているのだろう。 「おかあさんは芸術家やからなあ。多少、気まぐれでもしゃあないもんなあ」 「芸術家ゆうて、気性ばっかりやけどな。最初はお互い、緊張しててうまくいくねんけど、日ぃがたってきたら、やっぱり、二人ともボロがでてもうて。はよ切り上げるに限るねん。今年も二日にこっちに戻ってきた」 「なんか、実の親子関係を聞いてるような気がせえへんな」  チョコレートの箱が空になったのを見て、ユカが、フランスのチョコもあるで、とかばんから出してみせた。 「せっかくのお土産やのに一気に食べてしもて、なんかもったいないことしてしまったわ」  さっきまで食べていたチョコはどこの国のものだったのだろう、と思いながら、近所のコンビニで買ってきたみたいに食べ散らかしてしまったことを後悔してみせた。 「ええよ。それにしても、ほんま、美緒はチョコ好きやな」  微笑みながら、ユカはフランスのチョコレートを私に手渡す。さっきの箱と一緒に出さなかったのは、土産の山を目の前に突き出すと、私が恐縮してしまうだろうというユカの配慮だろう。多分、ユカのかばんには、まだ土産物が隠れているはずだ。 「もう、もったいないから、これはぼちぼち頂くことにするわ」  封を開けたら食べてしまいそうや、と脇に置いた私に、ユカは、そんな気ぃ遣わんかてええのに、と笑ってみせる。  エアコンで暖房し閉め切った部屋の中は、紫色に霞んでみえるほど、煙草の煙が充満している。ユカが部屋に来た時はいつもそうだ。遊びに行ったり、飲みに出かけたり、買い物をしたりという、通常の友人関係ならありそうなことを、出不精の私のせいで、私たちは滅多にしたことがなく、いつごろからか、二週間に一度くらいのわりでユカが週末の夜に私の部屋に現れるという習慣が根付いたのだが、私と同じくらいヘビースモーカーであるユカと私が、煙草とコーヒーととりとめもない会話を延々と続けるのだから部屋に煙が充満するのも当たり前の話で、焦げつきそうな部屋の空気にはたと気が付いて、一人きりでもなく、煙草を吸わない利明や、愛撫に忙しくその合間にしか煙草を吸えない土井の来訪でもなく、今、ユカが来ているんだなあ、と妙にしみじみ思ったりすることがある。 「クリスマスはどないやったん?」  私のクリスマスや正月のことを丁寧に訊いてくるユカに対して、私は、ユカの旅行について何も訊いていなかったな、とふと思った。 「まあ、去年通り」 「利明さんは、元気そうやった?」 「うん」  マグカップを置いて、私は、ユカの旅行はどないやった? ととってつけたように訊いてみた。 「楽しかったよ。ヨーロッパをぐるっと廻って」  今回は年末年始の休みが長いからゆっくり旅行ができると張り切っていたユカは、何気なく、私の問いに一言で応え、それ以上続けようとはしない。これは多分、逼塞《ひつそく》した生活をしている私への遠慮なのだ。私としては、一人暮しを維持するのに精一杯である生活をしていなくても、移動から移動を続ける長期の旅行なんて、事前の荷造りからして気が重くて面倒この上ないと思っているのだが。  ユカが海外旅行に凝《こ》りだしたのは、社会人になって間もない頃で、同期入社の同じ趣味の友人を見つけ、休みのたびに二人して旅だっている。次々に新卒が入ってくるユカの会社では、二人は若い女の子の中で肩身の狭い思いをすることも多いらしく、私はそのユカの友人と電話で一度しゃべったことがあるだけだが、その時彼女は、二人して海外で大暴れをして、日頃の憂さを晴らしているのだと明るく笑っていた。 「また、あの同期の子と?」  うん、とユカは笑顔を向ける。なぜか、ほのかな嫉妬を覚えた。 「そうそう、土井くんとも正月早々会ったわ」  いきなり出てきた名前に反応は鈍かったが、間もなくユカは、いかにも同級生を懐かしむような声で言った。 「ああ、あの子も元気?」  私と同じ文学部だったユカは、学部が違う土井とは直接親しくはなかったが、私との繋《つな》がりで、一応は知っているという間柄だった。 「相変わらず、元気やし、絶倫。この十年、壊れたことのないセックスマシーンって感じ。家電製品としては優秀でしょ」 「そんな言い方、土井くんがかわいそう」  言いながら、ユカはふっと目をそらせた。その視線の先のからになったマグカップに、私の視線も自然と移った。底にコーヒーの茶色いシミがこびりついている。 「もう一杯、いれよか」 「ううん、もうええわ」  煙草の煙を吐き出すふりをして、ユカはまたもや視線をそらす。 「じゃあ、水持ってくるわ」  私は、よいしょ、と立ち上がり、キッチンからグラスを二つとミネラルウォーターのペットボトルを取ってきた。ボトルに直接口をつけて飲んだ、その飲みさしだったが、何食わぬ顔でグラスに注ぐ。 「ありがと」  ユカの声が小さく響いた。  大学で知り合って以来、私が知る限り、ユカには男っ気がない。私はと言えば、大学卒業と同時に加藤と別れて以来、妻や恋人がいる男との刹那《せつな》的な関係を繰り返していたが、そんな私をユカは、ただ見守り、必要以上には立ち入ろうとしない代わりに、無制限に近く私を受け入れてくれている。  そういう友人を持ってしまうと、自分の何もかもを曝《さら》けだしたくなるのは、私に限ったことではないはずだ。だが、男とのセックスのこと細かなことまで報告したくなるのは明らかに行き過ぎで、所詮《しよせん》、私は男と付き合うにも、女と付き合うにも不具者であるのかもしれない。 「土井くんは、単に普通に、美緒を抱きたいって思ってるんだろうから、罪はないよ」  言ったあと、ユカは天井に向けて煙を吐き上げた。その拍子にショートカットのまっすぐな髪がさらりと揺れる。 「そんなもんかなあ」 「でも、この十年、セックスから何の派生も変化もないって、怖いくらいやね」  ユカだって揺らぎがない。いつも淡々と、私の悪あがきを見ているだけで、私には何の弱みも見せはしない。利明は、何の迷いもなくまるでペットの世話をするように私をかまうものだと思っていたのが、この頃は手を抜き、私を疎んじている。私をのみ込むばかりで、自身は大河のようにとうとうと揺らぎなく日々を送る利明を憎くさえ思っていたはずなのに、そうこうしているうちに、私の頭は永遠、という言葉で侵食されてゆき、今になって、途方に暮れている。土井のトラウマが、このまま続くとも思えない。ある日、本当に突然、私の前からぱったり姿を消してもおかしくはない。 「ユカが恋人やったらええのに。そしたら、一生、うまくいくのに」  ユカは微笑んだ。唇の端が力なく垂れている。 「うそうそ。女どうしのスキンシップって、やっぱり、考えられへんな」 「…………」 「女同士で触ったかて、気持ち良さそうな気ぃ、せえへんもんなあ。あ、でもユカならいいかも」  私の笑い声の隙間に、そろそろ帰るわ、というユカの声が響いた。  時計を見ると、九時に近くなっている。 「そう?」  うん、と立ち上がったユカは、父親から借りている車のキーをかばんから取り出した。私がヴィーナスフォートで買ってきたキーホルダーがぶらさがっている。イクスピアリで買ってきた似たようなキーホルダーを、私は出しそびれた。 「気を付けてな」  ユカを玄関で見送り、部屋に戻った私は、ユカが座っていたあたりに、チョコレートの箱が二つも出現しているのを見た。私が座っていた横にもフランスのチョコレートの箱。テーブルの上には、食べかすの箱。ユカはヨーロッパの四つの国で、私を思い出して土産物を求めたのだろうと思うと、胸が熱くなった。  それが私がユカの姿を見た最期だった。  二週間が過ぎて、いつもなら来るはずの週末の晩にユカが現れなくても、私は電話すら掛けなかった。なにか用事でもあるのだろうと思ったし、約束をしているわけでもなかった。もうしばらくして音沙汰がなければ、掛けてみようと思いながら、そのまま日は過ぎていった。  二月に入り、ひと月の日数が少ないせいで、私は仕事に追われていた。ひと月の仕事の流れを三、四日分、圧縮させるだけのことなのに、パソコンと電卓と書類の山の上を、手は慌ただしく動いていた。大学を卒業して以来、転職を三回ほど繰り返した私は、その度に年収を落とし、現在勤めている、鋼管の卸《おろ》しを商う従業員七人きりの会社にいたって、節約をしてもかつかつ一人暮しが営める程度に減っている。女性社員が他にいないため、必然的に事務処理を一手に引き受けているが、一つ目の会社では営業職を経験し、三つ目の会社では企画部という部署にいた。何をやっても面白くなく、続かない。私は、ただだらだらと、生活を守るために働き、転職するばかりだった。  定時の五時から二時間ほど残業し、ういた定期代を生活費に充てるために、いつものように地下鉄で一駅の距離を歩いて帰宅し、煙草を吸っていたら、電話が鳴った。 「水木さんのお宅ですか」  聞き覚えのない男の声だと思ったが、低音でおまけに滑舌《かつぜつ》が悪いその声をどこかで聞いた気もする。はい、と応えると、男はせき込んで、ユカの兄ですと言った。 「はあ、あの、なにか?」  ああそうだと思いながら私が戸惑っていると、ユカの兄だと名乗る男は、 「ユカが亡くなりました」  と唐突に言った。えっ、と声をあげた私に構わず男は、あのような死にかただったので、身内だけですませてしまいました、ユカの会社にだけは連絡を入れたのですが、ほかはちょっと、と早口で言った。 「すませたって、なにを?」  自分の声が耳元でぼんやりと響いた。 「葬式ですよ」  男はむっとした調子で応える。 「ああ、そうですね」  そのまま黙ってしまった私に、男はじゃあこれで、と言った。 「待って下さい。あのような死にかたって何なんですか」  突然すぎる話に半ば呆然となりながらも、私はさっきの男の言葉を少しずつ認識しはじめ、分からないことだらけだということに気がついた。 「飛び降り自殺です」 「ひっ」  淡々とした男の口調と、私の、喉を締め上げられたような叫びが交錯した。 「じゃ、失礼します」 「待って。どうして私の番号を……」 「ユカの手帳にありました。遺品を整理していて見つけたんです。一応、ご連絡をと思いまして」 「そんなものなんですか」  ぼんやりと呟《つぶや》いた私に、男は、あのような死にかただったし、とさっきの言葉を繰り返した。 「だったら、手帳の他の人にも、今から連絡をされるんですか」  まだ切るわけにはいかなくて、間をもたせるために私は思いついたままを口にした。 「ほかは、あと一人ですが」 「えっ、たった一人」 「ええ、でも会社の人らしくて、さっき電話してみたらご存知でした。密葬だと社内通知にあったから、弔電だけ打ったのだと言ってましたね。僕にはそんな弔電、覚えがないのですが」  相変わらずの早口だった。私はあせった。 「そう、そうです。あの……」 「なにか?」 「いつ、亡くなったんでしょうか」  男は三週間ほど前の日付を応えた。ちらりと目をやったカレンダーのその日付の横に先勝とある。 「じゃあ」 「いえ、まだ……。あの、立ち入ったことを聞きますが、自殺の理由は、いったい……」 「分かりません。遺書がないんですから」  ほんとにこれで、と言うなり男は電話を一方的に切った。  ユカが死んでも、私の生活は変わらなかった。一番親しい友達だったはずなのに、私の生活は変わらず、ユカが自殺した理由も分からなかった。  ユカの家にお悔みに行こうかとも思ったが、あの家族を思い出すと、腰が退けた。第一、ユカの家族に関係なく、一人でユカの死を悼《いた》んでも、問題はないだろうと思われた。なにしろ、三週間も過ぎてから連絡をよこしたくらいのものだから。  そうして結局、ユカの家にはいかず、墓がどこにあるのかも知らず、だから遺影も見ず、線香もあげず、戒名も知らないということになり、私はユカの死がぴんとこなかった。  どうして自殺したんだろう、と思うとすぐに、ユカには自殺をするパワーがあってうらやましい、などと不遜《ふそん》な考えが浮かんだりした。そのくらいだった。  土井が来たのは、ユカの兄の電話から、五日ほどたった頃だった。  玄関に立った土井のズボンのベルトが、前よりも少し細く、縛りやすそうなしなやかなものに変わっている。まず一番に目に留まったのは、その黒の革のベルトだった。 「何、これ?」  土井は、部屋に入るなり私を抱きしめようとした手をとめ、壁に目をやって、私に言った。 「ユカの写真」 「それは分かってる。あの、アユカやろ。なんでこんな黒ぶちにしてんねん」 「ああ、これ製本テープ。会社からパクってきてね。ユカ、死んでしもたから」  私は、ユカの写真を探し、大学のキャンパスで撮った十年も前の写真をかろうじて一枚見つけ、それをラップフィルムできれいに包んで、黒色の製本テープで縁をつくって、壁にフックでぶら下げていた。 「げっ、あいつ、死んだんか」 「うん」 「事故かなんか?」 「自殺やて。理由は分かれへん」 「で、お前、なんでこんなことしてんの?」  土井はもう一度、ユカの写真に目をやって言った。 「死を悼《いた》んでる」  なんか変やで、と土井は呟いた。 「こないなことでもせえへんかったら、なんかユカが死んだことがぴんとけえへん」 「無理にぴんとこささんでもええんちゃう」 「それが淋しいねん。自分が、すごい、無感動すぎて」  何を言うてるのか分かれへん、無感動なヤツならなんぼでもおるやろ、と言いながら、あのアユカがねえ、と土井は呟き、ようやくじゅうたんの上に腰を下ろして、煙草に火を点けた。抱くことを忘れるなんて珍しい、と思いながら、私も小さな丸テーブルをはさんで土井の向かいに座る。 「なあ、さっきから、アユカって言ってない?」 「ああ、うん」 「なに、それ」 「あいつのあだ名やんか」 「初耳」  私も煙草に火を点けた。今日はしないのだろうか。 「あいつと同じ高校出身のヤツに聞いたから、高校までのあだ名かもしれへんな」 「ふうん」  ユカの話に飽きた私ははいはいをして土井にいざりよった。おいおい、と土井は慌てて左手の煙草を灰皿に押しつけた。口にくわえたままだった私の煙草も抜き取って、灰皿に押しつける。そのまま筋肉質の固い腕が、私の肩を抱きしめた。 「おまえ、このごろ変わったよな」  土井は浮かび上がる笑みを押し止めるように口元をひきしめながら言った。あぐらをかいたふとももの上に私を抱き上げる。 「そう?」 「うん」 「どんなふうに」 「どんなふうにと言われても……」  土井は、自分の胸に強く私を抱きかかえ、 「こないだみたいに、する?」  と、耳元でささやいた。  土井に服も下着も脱がせてもらった私は両手をベルトで縛られ、何もできない子供のようになって、土井の手の動きのままに声をあげた。もう入れて、と言っても、土井は、愛撫の手を休めなかった。裸の赤ん坊が、母親のくすぐる手に声をあげて笑うように、私は声をあげた。子供の頃、くすぐったかった体の部分が全部、性感帯に変わっている、そんな気がした。 「ほら、音がしてる」  土井は、私の濡れた陰部を指で撫でながら言った。 「早く入れて」  私は喘《あえ》ぎ疲れて掠《かす》れた声で言った。  土井は素早く裸になりながら、あの写真、と言った。 「えっ、なに?」 「なんか、アユカに見られてるみたいや」 「そう? 気になるなら……」 「いや、ええわ。なんか、興奮する」  土井は小さく笑いながら言った。私もそんな気がして、笑ってみた。 「縛ったまま、してね」  電気を消さない部屋で、私は少し照れながら言った。土井から視線を外した拍子にユカの目とぶつかる。生きて男にしがみつくのと、死んで何もなくなるのと、どちらがいいんだろう、とふと思った。  二人でベッドに並んで座り、煙草を吸いながら、降りだした雨の音をぼんやり聞いていたら、土井が低く笑いながら言った。 「おまえ、このごろ、絶倫やなあ」 「女でも絶倫ってあるの?」 「さあな」  照れ隠しにしては味気ない。多分、私たちは永久に恋人どうしにはなれないだろう。 「……ねえ」 「うん?」 「私のこと、好き?」 「うん、宇宙くらい」  土井は即座に応え、がははと笑った。 「ユカって」  その笑い声にいたたまれず、私はおっかぶせるように言った。 「うん?」 「なんで、アユカって呼ばれてたんやろ」  セックスをして落ち着いてしまえば、やはり気になることだった。 「そら、アユみたいに縄張《なわば》りはって、他を寄せつけへんからやろ。アユ+ユカでアユカや」 「どういう意味? 全然分かれへん」 「お前、仲良かったんやろ」 「でも、知らんもん」 「大学の頃、お前とアユカが学食におる時に、俺と高木が来合わせて、しゃべったことがあったやろ。高木。俺と同じクラスの。覚えてないの? まあ、ええわ。お前らが先に学食から出てったあと、その高木がな、言うとった。アユカも、落ち着いたよなって。あの時、高木とアユカって、全然口もきけへんかったから、知り合いやとは思わんかったけど、あいつら同じ高校やったらしい。みんな、アユカって呼んでたらしいで。なんていう病気か、よく知らんけど、いや、それが病気かどうかも分からんけど、人と接触するのが怖いっていうやつやって、高木が言うとった」  私は、漠然とした無力感を感じていた。まとっているタオルケットの端がぬるりとした感触で濡れている。土井は煙草の煙を吐き出しながら、こともなげに語る。裸のひき締まった胸に、あわく鳥肌がたっている。 「人と接触するのが怖いってなに?」 「俺も詳しいことは知らんけど」 「ユカって普通に人としゃべってたよ」 「接触って言うても、例えば、肌が触れあうのが怖いとか、そういう具体的な接触やで、たしか。高校の時、ラッシュを避けて、むちゃくちゃ早い電車で通ってたって、高木が言うとったから」 「そういえば大学でも、一時限目は、あの子、あんまりとってなかったかなあ」  ユカとの日々を思い出そうとした。確かに、女友達の間で軽くするような、手を握ったり、髪に触れたりということは、ユカとの間にはなかったように思う。そのせいか、むやみな親近感も湧かず、どこか遠慮のある感じは否めなかったが、私はそれが心地よかった。へたな親近感なんて、いざとなれば何の役にも立たない。男となら、いくらこじれきった関係でも、抱き合えば救われることもあるだろうが。 「それにしても全然知らんかった。なんかショックやな」 「……俺が思うに、アユカって、女となら時間をかけて少しずつ、スキンシップできてたんちゃうの? 男相手だったら、そうも言ってられへんわけやし。せやから、水木は気ぃつけへんかったんやろけど、アユカにしたら、水木は、肌を触れ合える大事な友達やったんちゃうか」  私を憐れんだのか、土井はいつになく饒舌《じようぜつ》に私を慰めた。激しくなった雨が、向きが変わった風にのってぱらぱらと窓のすり硝子を打ち、窓全体が寒い音をたてて震えた。 「ユカは、なんでそんな病気になったんやろ」 「さあな」 「高木くんは、その時、何か言うてなかった?」 「多分。アユカに興味があるわけじゃないから、俺もつっ込んで訊けへんかったし」 「そう」 「あの頃から俺の興味は水木だけや」 「よく言うわ」  ひと呼吸おいて、そやな、と土井は真顔で言い、からからと笑った。  シャツを着ようとした土井の手を私は遮《さえぎ》り、もういっかい、と言った。 「したい?」 「抱いてほしい」 「でも、もう十一時やし、帰らんとまずい」 「少しだけでいいから」  私は土井をベッドに押し倒した。抱きしめられるだけでいいはずが、また一通りの行為をし、土井は、泊まろうかなあ、と言いながらそのまま寝入ってしまった。部屋全体が埃《ほこり》っぽく、薄汚れていた。多分、ふとんやシーツの綿埃があがったせいだろう。煙草を二本吸った。ユカの写真に、アユカと呼びかけてみた。なんだか、全く知らない他人の遺影を飾っているような気がしてきて薄気味悪くなり、私はユカの写真を籐の整理だなの引き出しに放りこんだ。部屋の明かりを消した途端、ざあっという雨の音が響いた。 [#5字下げ]5  寒い日が続いている。もし働いていなければ、一歩も外に出る気がしないまま出るきっかけを失って、しまいには餓死するのではないかと思うほど、寒い。  自転車に乗って十五分の距離があるスーパーにわざわざ行く気がしなくて、会社帰りのコンビニで、弁当とチョコレートと水と翌朝のパンを買う。もう、何日もコンビニ弁当を夕食にしている。何を食べても、そう不満はない、飽きもしない。だから、次はコンビニの店員でもいいかもしれない。賞味期限切れの弁当をただでもらえたら、食費が随分、うくだろう。  食べものの好みは特にはないつもりだが、チョコレートは、本当によく食べる。煙草は高校生の頃から吸っていて、今さらやめられない。キャスターマイルドに銘柄を決めてしまってから十五年がたつ。水は、よく飲む。利明が必ず買ってくる東京土産の〈東京ばなな〉も大好きで、絶対に飽きない。好き嫌いはないはずなのに、いつも決まったものばかりを食べている。  いまや日本人の必携とも言うべき、携帯電話やパソコンを私は持っていない。携帯電話は、特に必要を感じないからだが、パソコンはあると便利だろうとは思う。だが、私には便利になる以上に、困った問題がある。  数年前、友達のパソコンで初めて〈フリーセル〉の存在を知り、そのカードゲームで遊んでいたら手が止まらなくなって、その友達の家で夜を明かしてしまったことがある。それ以来、パソコンを見ると、フリーセルをする。まったく飽きない。ちなみに今は、会社のパソコンで昼休みになるとフリーセルに熱中している。見かねた会社の人が、他にもっと面白いゲームがあるのに、と教えてくれても、フリーセルはやめられず、他に興味がうつらない。もし家にパソコンなんてあった日には、一歩も外に出ずにフリーセル三昧《ざんまい》になり、廃人になってしまうだろう。買わない、という自制心はあっても、パソコンを目の前にして遊ばないという自制心は私には多分、ない。生きるという積極的な意志なんてないくせに、いや、だからだろうか、簡単に廃人になってしまいそうな私は、怖くてパソコンなんて買えない。生きるのは面倒だけど、廃人になった先もなかなか面倒そうな気がする。  何も持たない私は、朝起きて慌ただしく出勤し、帰ってくれば、入浴し簡単な食事をすませ、そうしたら他には何もすることがなく、テレビを見たり、マフラー編みをして時間をつぶす。  こうして死ぬまで生きてゆくのか、と思うとぞっとする。楽しく生きるか、何も感じず生きるか、すっぱり生きるのをやめるか。どれも出来ない私は、どうなるのだろう。ユカが死んで以来、ユカが死んだ実感は湧かないままに、死というものをつらつらと考えることが、このごろ多い。  二月の終わりになって、利明の声を久しぶりに聞いた。コンビニ弁当で夕食をすませ、やたらと長い紺色のマフラーを編んでいる時に、電話が鳴った。 「明日の晩、そっちに帰るからね」  聞き取りにくい携帯電話の声がそう言った。  寮の部屋に固定電話をつけていない利明との連絡手段は携帯電話に限られているが、いつ掛けても不思議に繋《つな》がらない。だから、このごろは掛けるのをやめた。掛けて、留守電サービスの音声を聞くたびに、胸が騒がしくなるのに疲れてしまった。  そして利明は、いつも私の部屋に来る日の直前になって、電話をよこした。私の都合など、無いに等しい。 「美緒、聞こえてる?」 「うん」 「じゃあ、また明日」  ぷちっと音がして、不通音が響いた。  明日の金曜の晩、仕事を終え、新幹線に飛び乗る利明は、きっと夜中の十一時前くらいに、私の部屋を訪れる。昨日、土井が部屋に来たせいで、私の淋しさは刹那《せつな》的に満たされている。あと一週間くらいずれていれば、とてもいいスケジュールなのに。仕事の隙をぬって不定期に現れる土井と、二カ月に一度のわりで新幹線に乗ってやってくる利明では、二人がいちどきに来て、誰も来ない日が何日も続くことも多くて、私はバランスを失ってしまう。  狭い浴室の狭い浴槽に、久しぶりに湯を張った。入浴に時間がかかることが億劫《おつくう》な私は、こんなに寒い季節でも、シャワーの湯を出しっぱなしにして、髪や体を洗い、そそくさと浴室を出る習慣がついていたが、今日は、湯につかってパックをしようと思いついたのだった。三十歳を過ぎれば、毎日パックをしてもしすぎではないらしい。確か、こないだの電話で、茜が言っていた。二つ目の会社で同僚だった一つ年上の茜は、現在、化粧品メーカーに勤め、社員割引で安く買えるからと、私にしばしばその会社の製品を宅配便で送ってくれる。茜への東京土産を、去年の分も一昨年の分も渡しそびれている始末の私は、いつも恐縮しながらそれを受け取る。私の出不精を承知しているところはユカと同じだったが、茜が私の部屋に来ることはない。もっぱら顔を見せない付き合いに落ち着いているが、いずれ茜とも疎遠になるのだろうと思いながら、茜が送ってくれた泥パックのチューブを手にとった。  目のまわりを除いた顔全体に、ミネラルが豊富に含まれるという薄緑色の泥のパックを塗って、湯に浸《つ》かる。湯からあがる蒸気が、パックの効果を高めるらしい。いずれは滅びて焼かれる肉体なのに、とふと思う。利明は、きっと気がつかないだろう。一度や二度のパックで肌が変わるはずはない。それでも、いい。こうしている間に、私は利明を好きなのだと思える。利明に愛されたくて、こんなことをしているのだと思える。自分自身をすら愛しく思えてくる。  パックを洗い流した顔を鏡でのぞくと、妙に蒼白かった。 「ただいま」  利明が、ドアの外で微笑んだ。その目がほんの少し充血している。玄関の中に入った途端、かすかに顔をしかめ、すぐその表情をかき消し、もとの柔らかい笑顔に戻る。部屋にこもっている煙草の臭いのせいかと気になったが、私もそしらぬ顔をする。 「おつかれさま」  私は、利明の右手の荷物を受け取り、その大きな黒いナイロンバッグの重さによろめいた。 「何、これ。重いね」 「ああ、パソコンが入ってるから。明日、ちょっと仕事するからね」  靴を脱ぎながら利明は言い、とっととキッチンを通り抜け、部屋に入ってすぐの洋服掛けに掛かっているハンガーを取って、コートとスーツの上着を一緒に掛けた。その上に、外したネクタイをふわりと巻きつける。  パソコンが入っているというバッグをテレビの横にそっと下ろしながら、私は、 「じゃあ、どこにも出掛けへんの」  と、どこかに出掛けたいわけではなかったが、一応、訊いてみる。そういうこともあろうかと思って、今日の夕方、私は会社が終わるとすぐにスーパーに行った。二人で部屋にこもるには、相当の食料がいる。 「うん。仕事があるからね」  利明はクッションの上に体を拡げ、テレビのリモコンのスイッチを押した。二十三時からのスポーツニュースにチャンネルを合わせ、利明の視線はそれに固定される。 「日曜日は?」  テーブルをはさんでじゅうたんの上に座り込んだ私は、なおも確かめる。 「五時の新幹線で帰るから、それまでなら、出掛けられるよ。でも、部屋でゆっくりするのも、いいと思うけど」 「そうね」  こうして、私たちの二カ月ぶりの〈逢瀬《おうせ》〉の予定は決まる。  利明は、部屋じゅうに拡がっていくのではと思うほど体を伸ばし、既に眠そうな顔をしている。 「ご飯は食べたのよね」 「うん。新幹線の中で」  利明の視線はテレビから外れない。プロ野球のキャンプ情報なんて、そんなに熱心に見るものだろうか。 「何か飲む?」 「お茶でいい。あっ、そうそう。そのかばんの中に〈東京ばなな〉が入ってるから」 「ありがと。かばん、開けていい?」 「うん」  私は、ナイロンバッグのファスナーを開け、菓子箱を取り出した。利明が見ているかもしれないから、うれしそうな表情をつくって、かばんに落としていた視線を、顔をあげて利明に向けてみたが、利明は相変わらずテレビに見入っている。  キッチンに行き、冷蔵庫に〈東京ばなな〉をしまい、熱い緑茶をいれて部屋に戻った。テーブルに湯飲みを置くと、利明はテレビに顔を向けたまま湯飲みに手を伸ばし、唇を梅干しを食べた時の形にすぼめて茶をすする。 「ねえ」  なんとなく、焦《じ》れた声をだす。 「なに?」  なに? と言われても、何もない。ただ、週に二度も来ていた頃は、会えばすぐに抱きしめてくれたのに、と思う。そして、例えば私がテーブルをはさんで利明の向かいに座っても、すぐに利明は手招きをして私を呼び寄せ、抱きしめていたはずだった。  あの頃も愛されているとは思えなかった。だが、今になって、あの頃はもしかしたら愛されていたのかもしれない、と思う。今なんかより断然優しかったのだから、あれこそ利明の愛の形ではなかったのかと思う。  あの頃に帰りたい。あの頃の私に帰りたい。  いつもそうだ。何か事が起こるたびに、それを乗り越えられなくて、ただ、むかしを懐かしむ。むかしはむかしで、そのまたむかしを懐かしんでいたはずなのに。そして、そのむかしは、私は幸せだったのだろうか。 「ねえ」  やっと利明は私に顔を向け、もう一度、なに? と言った。 「ユカが死んだの」  ただむやみに呼びかけていた私は言葉に詰まり、咄嗟《とつさ》にそう言った。 「えっ、ユカって?」 「ほら、私の大学の時からの友達。ここで、何回か、来合わせたことがあったでしょ」 「ああ、あの子か」  利明は、湯飲みに口をつける前から、唇をすぼめる癖があるようだ。私は、その尖《とが》った唇に早く触れたいと思う。 「飛び降り自殺したの」 「えっ、自殺か」  嫌なことを聞いたという表情で利明は言った。 「もしも、私がね」 「うん」 「すごく淋しくって、自殺したいなんて言うたらどうする?」  利明は、眠たげな目を向けて言った。 「美緒は、そんなこと言わないだろ。言われたって、俺はどうしようもないんだから」 「そうよね」  くだらないことを言ったもんだと自分が嫌になる。 「なにを拗《す》ねてるの」  うんざりとした表情を柔らかくつくった利明は、コマのついたテーブルを脇へ押しやって、私を抱き寄せた。抱き寄せてもらうのに、こんなに手間がかかるなんてと思うが、自分からは怖くて近づいていけない。むかしのようには抱き寄せてくれない利明に、私を抱く気はないのだから。困った挙げ句でもいい。私を黙らせるためでもいい。利明の方から私を抱き寄せるのを、私は待っている。 「気持ちいい」  利明の腕に包まれた私がそう言うと、利明は私の顔を自分の胸に強く押しつけ、髪を撫でた。視界のきかない私は、多分、利明はそうしてテレビを見ているのだろう、と想像する。それでもいい。人の肌はあたたかくて、気持ちいい。強く、きつく、がんじ搦《がら》めにされるほど、体が形をなくしてゆきながら脱力する感じがある。ユカの顔が、暗い視界をよぎったが、こうして人に抱かれている私は、やっぱり幸せなのだろう。  押さえつけられている頭を強引に動かし、私は、利明の体の上をずり上がってキスをした。舌をほんの少しからめただけで、利明は、私の肩をつかんで引き離す。 「どうしたの。淋しかったの」  利明の優しげな声。私はいつでも淋しい。利明と一緒にいても。 「さあ、風呂にでも入ろうかな。美緒はもう、入ったんだろ」  この辺りで私から解放されたい利明は、さも疲れた、といった声で言った。  うん、と呟いて利明の体から離れると、利明は、慌ただしげに立ち上がる。  シャワーの音を聞きながら煙草を吸っていると、洋服掛けのあたりから、利明の携帯電話が鳴った。浴室の利明には聞こえていないらしい。私と会っている時は必ずマナーモードにしているらしい利明が、今日は珍しくマナーボタンを押し忘れたのだろう。どうしようと思いながら、スーツの上着のポケットを探ると、携帯電話の液晶画面が明るく輝き、ミキ、という文字を浮かび上がらせている。  そのまま電話をポケットに戻して放っておくと、音は鳴りやんだ。  どうせ利明は、飲み屋の女の子だとか、東京に住んでいるいとこだとか言うはずだ。私だって、利明のいとこになったことがある。数年前、二人で京都に出掛けた時、利明の会社の人にばったり出くわし、私はいとことして紹介されたのだ。別の時には妻だと紹介されたこともある。でも、私は利明の妻の名前を知っているのだから、多分、利明は、いとこだと言い訳するのだろう。  いくら、どう問いただしたって利明はきっと自白しない。ありえないような嘘でもきちんとつきとおす。そして、 「なんでそんなに俺を信じられないの。もし、他に女ができたら、わざわざ新幹線に乗ってまで美緒のところには帰ってこないよ」  と、自分も他人も信じて揺らがない利明はいつも堂々と言うのだ。自分も他人も信じられない私は返事のしようがない。いつもいつもその繰り返し。さすがに馬鹿らしくなる。  シャワーの音がやんで、浴室のドアが開く音がした。私は煙草を吸い続ける。 「美緒」  浴室から利明の声が響く。煙草を消して立ち上がり、暗いキッチンを抜けた私は、その横の脱衣場で、バスマットを踏みならして足を拭いている利明の、また少し太ったらしい体を見る。ペニスが、小学校の理科の教科書にあったワムシの拡大写真のような形をして垂れ下がり、足の動きに合わせて揺れる。  バスタオルで頭を拭きながら、パジャマ出して、と利明が言った。その利明の濡れた背中にそっと抱きつく。信じられないまま、信じているふりをする。そうしたら、信じているのと同じような、経緯と結果を得られるのだろうか。 「ひっつき虫みたいに」  利明が笑った。他の男にもよく言われたセリフだと思いながら、私も笑う。  そそくさと体を拭いた利明は、もうパジャマはいいよ、と言い、私の着ている物を脱がせ始める。いつも通りのシンプルで力強いセックスをして、利明は深い眠りに落ちるのだろう。  利明がいる朝の、朝食のメニューはいつもだいたい同じ。ロールパンと、目玉焼きを二つずつと、キーウィやらいちごやらの果物と、中挽きの豆からいれたコーヒーと。利明が好きな取り合わせらしい。  利明が眠ってしまった後、明け方まで利明のパソコンでフリーセルをした私は、寝不足の目を赤く充血させて、キッチンに立っていた。利明はベッドに寝そべったまま、テレビを見ている。まだ眠い、とシングルベッドの中でぐずる私の耳元で、利明は、腹減った、の大合唱を繰り返し、挙げ句、私は卵を焼き、利明はベッドの温もりの中にいる。夜ふかしをした私が悪いのだけど、なんだか腹が立つ。でも何も言えない。利明はわざわざ新幹線に乗って来てくれている。私は以前よりも一層、卑屈になっている。 「できたよ。早く起きて、顔洗って」  私は、キッチンから奥の部屋に向かって声を上げる。どたどた、という音を響かせて現れた利明が、コンロをのぞき込む。 「うまそう」  いつもと同じなのに、いつも利明はそう言う。うんざりしながら、私もメニューを工夫しようとはしない。  土曜日の朝の和やかな食事。結婚生活とはこういうものだろうか。独身を通す人が増えているとは聞くものの、学校の同級生や転職を繰り返した先々の会社の同僚は、男も女も、もうほとんどが結婚をすませている。みんなは、いったい、どんな生活をしているのだろう。  結婚したり、人生をある程度あきらめたり見通せたり、そうして落ち着いてゆく年頃になって、ユカが、最期の力をふり絞るように自殺をしたのだとすれば、いったい私はどうすればいいのだろう。 「今日は仕事をするからね」  利明が目玉焼きの小さな欠片《かけら》を唇の端につけて言った。 「美緒はどうするの」  私には何もすることがない。 「マフラーでも編んでる」 「そう」 「この冬は、もう七本も編んでん」 「そう」  二人同時に箸を置いてマグカップに手を伸ばした。私は何となく笑う。利明はテレビを見ていて、それに気付かない。 「どうしたの」  テレビを見ながら利明が言う。 「なんでもない」  南に向いた窓から、冬らしい柔らかな光が溢れている。生きてゆく以上、生きることに懐疑やためらいを抱いてはいけないのだ。  日曜日の朝、私は利明の大合唱より先に携帯電話の呼び出し音で目が覚めた。  ベッドから跳ね起き、洋服掛けに駆けより、上着の胸ポケットに手を突っ込むと、液晶画面には、またもやミキ、という文字が表示されている。 「ミキちゃんからよ」  私は、鳴り止まぬ電話を持って、ベッドの中でうなっている利明の鼻面に突きつけた。  右手をふとんの中から出した利明は、寝起きの不機嫌そうな目をして電話を受け取るなり、おお、とやけにはっきりとした声で受話器の向こうの声に応えた。 「で、調整はうまくいった? ああ。資料はだいたい出来てる。えっ、明日ぁ? 明日か。早く言えよ」  利明が私をちらりと見た。 「全然、鳴らなかったけど。まあ、いいや。サンキュ」  何気なさげに私は利明の横に張りつく。電話から、じゃあ、という男の不鮮明な声が聞こえた。  電話を切って私に渡しながら、利明は、金曜日の晩、電話鳴ったっけ、と言った。  ミキって多分、三木なんや、と思いながら、私は「さあ」と応え、電話を胸ポケットに戻した。 「俺が風呂に入ってる時かなあ」  利明はまた私をうさんくさげに見つめる。そんなに気にしていたなら着信履歴をこまめにチェックしていればよかったじゃない、と思いながら、私はそ知らぬ顔で見つめかえした。 「かもね。あっ、そう言えば、その時私、ゴミを出しに行ったから、その間かも」  そうか、とため息をつきながら、利明は、ごめん、今日も仕事するわ、と言った。 「あいつ、昨日にでももう一回くらい、掛けてきてくれたら、いいのに」  利明はベッドから立ち上がり、頭を掻きながら洗面台に向かう。その後を追いながら、 「忙しいのに、来てくれたんやね。ありがと」  と言うと、まあね、と利明は応える。なぜ、よりによって忙しい時に、とも思うが、もしかしたら利明は、いつも忙しいのかもしれない。大阪にいた頃とは、随分仕事の様子も違うのだろう、と思った。 「腹減った」 「うん、今すぐ作るから」  一昨日の晩から、「腹減った」と「ジュース」と「お茶」は、何度も聞いたけど、それ以外はほとんど会話らしい会話もない。昨日の晩、鴨肉と三つ葉の鍋を夕食に出した時に、利明は、久しぶりだと喜んだ。その時に寮の食事の話を少し聞いたっけ。七年もたてば、そんなものかもしれない。いや、私たちは、初めからそうだった気もする。  昨日と同じように、利明は朝食を食べるとすぐに、小さなテーブルにパソコンを置き、あぐらをかいて、何やら真剣に打ち込んでいる。  私は、六畳にベッドが幅をきかす狭い空間の、利明がその真中に居座る隙間で、マフラーを編んだり、昼寝をしたりして、時間をつぶす。  昼は、焼きソバを作って食べた。その間じゅう、利明はテレビを見ていた。  五時の新幹線で帰ると言っていたから、あと四時間もすればここを出ていき、次に会うのはまた二カ月後だろう、と思うと、徒労、という言葉が頭をよぎった。初めから利明のこころを欲しいと思ったことなどなかった。第一、利明は今までの男の中で一番得体が知れなかった。ただ、近くにいた頃の利明は、倦《う》むことなく、疑うことなく、週二回のペースを守って私を抱いた。何らかの疑念が萌す前にいつも私は抱きしめられた。男のからだは本当に温かくて、私は永遠に全てに目を瞑《つむ》って生きてゆけると思っていたのだ。私を抱きたい、という利明の欲求さえ失われなければ、それでいいと思っていた。  そのスパンが二カ月に一度になっただけだ。もう一年以上もそうして過ごしてきた。そう思っても、日に日に私のからだは冷えてゆく。そして利明の揺らぎを感じる今、私は利明以上に揺らいでしまう。  焼きソバを食べ終えた利明は、私が片づけたあとのテーブルに、またパソコンを据えた。 「なんだか、一人ぼっちでいてるみたい」  私は、横で緑茶をすすりながら、呟いた。 「仕方ないだろ」  パソコンの画面から目を離さずに利明は言う。 「だって」 「わざわざ新幹線で帰ってきてるっていうのに」 「そうだけど」 「生活が変わったんだから、ちゃんと適応してくれよ」  生活が変わったのは利明だけで、私の生活はいつだって変わらない。だが、〈ちゃんと適応して〉新幹線を使って来てくれる利明に、それは言えない。 「うん、でも」 「なに? 無理だよ、いろいろ言われても。そんなだったら続かない」  いらだたしげに利明は目をあげて私を見つめた。 「こうしてでも続けることに意義がある?」 「なんだよ、わざわざ来てるのに」 「わざわざ? 会いたくて来てくれてるんじゃないの」 「そうだけど」  不満気に言って、利明は画面に目を戻す。 「わざわざ来てくれてるから、私は何も言えないの」 「何か言いたいことがあるのか? どうしたいの」  利明の指は、乱暴にキーを叩き、派手な音をたてた。 「どうって……」 「美緒はどうしたい?」 「…………」 「別れたいのか」  この決めゼリフは今までに何度となく聞いた言葉だ。そのたびに、私は、淋しさに駆られて咄嗟《とつさ》に首を横に振った。話は簡単にすむ。利明はやれやれといった顔をする。面倒な話はなしにしてくれと言わんばかりの顔だ。私には、別れたって別れなくたって、より良い自分なんてどうせないのだから、現状維持は妥当な線だろう。 「利明にまかせる」 「えっ」  利明がパソコンの指を止め、首を振らない私を見つめた。私は湯飲みをパソコンの横に置き、正座をした自分のふとももに目を落とした。 「いいのか?」 「うん、利明にまかせる」  私はこのセリフが気に入った。もう一度、利明にまかせる、と言ってみた。 「もう、来ないよ。電話もしない。それでもいい?」 「だから、利明にまかせる」  本当に別れることになるのだろうか。ちょっとめまいがした。だが、どうせなら、何もかもをまかせてみよう。その方が、何もかもに諦めがつくかもしれない。だけど、どうして突然、こんなに思い切ったものだろう。 「美緒」 「うん?」  利明はテーブルを脇へやって、私を抱き寄せた。耳元で、愛してる、と聞こえる。  抱きしめられたまま、目の前が暗くなり、上体がふらふらと揺れた。だが、私は利明にささやかれた途端、迷うことなくその言葉にすがっていた。結局、いつもの痴話ゲンカになってしまったことに安堵すらしている。  利明は、会社から月に二回分の帰省手当をもらっていて、その四分の一を私と会うために使っている。いずれ家族が東京に移り住むとは聞いているが、それまでは、こうしてやっぱり続くのだろう。大過なく、漠然とした、生を消化するだけの日々が。 「俺は美緒と続けたい。でも、頼むから、今日は仕事をさせて」  利明は、〈甘えん坊〉で〈淋しがりや〉のいい歳をした私の頭を撫でながら、いい子だから、となだめる。柔らかな手で、私の頭をイヌのように何度も撫でる。私は、またいつもの流されるべき場所にひき戻される。 [#5字下げ]6  自分の死期って、ユカは知りたいと思えへん?  私はいや。美緒は知りたいの?  うん。毎日確実に生を消化していく感じがして、いい。  そうかなあ。もし平均寿命まで生きるとしたら、私らって、今で八分の三くらい?  そう。なんか、うんざり。  死をことさら口にしていた私が、今こうして在り、ユカはとっとと死んでしまった。  大切な友達が死んだというのに、私の何もない生活は変わらない。今さら、淋しくなった、とも思わない。ずっと前から淋しいのだから。  淋しいと言うだけの私は、傲慢だ。そして、息を潜めて自分の生だけを見つめている私に、他人の痛みは分からない。ユカの自殺の原因なんて分からない。  ユカが飛び降りた場所さえ知らない。行ってみようと思ったことさえない。私はただ部屋で息を潜めているだけだ。  ユカが死んだことをうっかり忘れそうになって、私は慌てる。そんな時、ユカが死んだのは私のせいだ、と呟いてみる。胸が苦しくなって、それがなんだか気持ちいい。ユカが死んだのは、きっと私のせいなんだ。手を触れずして、私はユカを殺したのだ。  このごろ、土井の携帯電話をよく鳴らす。晩の八時に掛けても、十一時に掛けても、土井はだいたい会社にいて、必ずと言っていいほどきちんと繋がり、機嫌のよい声を聞かせる。 「おお、どないしたんや?」 「どないもせえへんかったら、掛けたらあかんの」 「分かった。淋しいんやな」 「べつに」  ふふっと笑いながら、土井は、そうか、と言い、受話器の向こうの誰かに、俺の判、漏れてないか見といてくれ、と言う。 「ごめん、仕事中に」 「ええよ。どうせサービス残業やねんし」 「じゃあ」 「あと一週間もしたら今の仕事、片づくから」 「うん」 「待っといて」 「うん」  土井は、細めのしなやかそうなベルトをしてやって来るなり、私にキスをする。 「水木、このごろ、変わったな」 「なにが」 「お前から電話掛けてくることなんて、前はなかったのに」 「そう?」 「そう」  土井は、まんざらでもない顔をして、私の頬をつつく。  変わったなんてわざわざ言われなければ、それですむものが、変わったと言われれば、次に私はどう変わってゆくのだろうと不安になる。  でも、土井の手に操られる感じが気持ちいい。手首に食い込むベルトの感触も気持ちいい。  一時間以上もそうしてベッドの上で過ごしたあと、煙草を吸いながら土井が言った。 「水木って、先のことをどう考えてるの」 「どうって?」 「今の仕事をずっと続けるんか」  土井こそ変わったと思う。私の生活に触れることなんて、前はなかったのに。会話らしい会話のない利明との関係の中で、唯一、頻繁に現れた話題について、今度は土井と繰り返すのだろうか。 「そんなこと、土井くんに関係ないやん」 「そやな」 「そうよ」  私自身、分からない。いつ、つぶれてもおかしくないような小さな会社がいつまで続くかなんて、分からない。私の前に事務職を務めていた女性は、五十歳を過ぎて、やんわりと肩を叩かれた。 「でも、もったいないよな」 「…………」  分かっている。子供も生まず、かと言ってそれに代わるような何物も生みださず、何物とも関われない。私の生はおよそ非生産的だ。そしてより現実的に見れば、浮き草のような状態で、何とか日々の糊口を凌《しの》ぐだけの生活なのだ。土井なんかから見ればそう言うだろう。そして、そろそろ、私が重荷になってきているのだろうか。三十歳を過ぎた一人暮しの女の生活の安定は、本人にとっても、その男にとっても、大切な問題だ。 「土井くんに囲ってほしいなんて言わないから、大丈夫」  私は声をあげて笑った。 「囲えるもんなら、囲いたいよ」 「ほんまぁ?」 「うん」 「無理しなくって、いいって。セックスさえしてれば」 「そないな言い草はないやろ。人をタネウマみたいに」 「じゃあ、私を殺して」  私は笑ったまま、言った。 「へっ?」 「そんなに心配してくれるなら殺して」  土井は、ふうっ、と音をたてて煙草の煙を吐き出した。 「ほな、ひいひい言うまで、いかせたろ」  むかしは、とまた思う。淋しさをふりかざしながらも、人を傷つけたいとまでは思わなかったのに。  三月に入ってすぐ、珍しく雪が降った。寒波が襲来した時でさえ降らなかったのに、朝、会社に着いた頃から降り始め、大粒の雪が雑居ビルの三階にある会社の窓の外をひっきりなしに舞い散った。  もう止んでいるかと、時折、机から顔をあげて窓を見る。そんなに降り続く雪を見た記憶がない。だが、雪は降り続いている。その度に、少し驚く。窓の下をのぞいてみると、すぐ下の大通りのアスファルトは、溶けた雪で黒ずんでいた。歩道を通る人の肩や、停めたバイクの座席には、雪がほんのりと白く積もっている。この雪は降り続く雪なんだ、と思い直し、今日は雪の中を歩いて帰るんだ、と思ったりしたのに、退社をする頃になって、雪の粒は小さくなって、消えかけの線香花火のような、細くちかちかと光る白い線になって、とうとう止んでしまった。  今日の雪は珍しかったね。誰かとそんなふうに話したい。利明のいる東京でも、雪は降ったのだろうか。だが、所詮、利明の携帯電話は繋がらない。ユカはいない。仕事のさ中の土井に、わざわざそんなことを言うために電話を掛けるのはどうか。初老の男性ばかりの会社では、私は、電話の応答以外にはほとんど口を開かず、一人暮しの部屋に戻っても、たまにひとりごとを言うくらいのもので、私の喉は、時々、音の出し方を忘れるようだ。いや、煙草の吸いすぎのせいかもしれない。とにかく、私の喉は、たまに掠《かす》れた音を出し、たまに音を出さなくなる。  まだ乾いていない歩道を歩いて部屋に戻り、シャワーを浴びてコンビニ弁当を食べ、雪やこんこ、となぜか童謡を口ずさみながらマフラーを編んでいると、電話が鳴った。土井からかと思った私は、受話器を急いで取り上げる。 「もしもし、お姉ちゃん」  お姉ちゃん、ともし呼びかけられなければ、それが妹の声だとは聞き分けられないほど、その声は随分、久しぶりに聞くものだった。 「うん」 「元気?」 「うん。今日、すごい雪が降ったなあ」 「そう? こっちは降ってないけど」  妹の住む大阪南部の町は、かなりの山手のはずだったから、意外な気がした。 「そんなことより、話があんねん」 「なに?」 「お姉ちゃん、暇やろ? ちょっと家に来てほしいねん」  確か四年も五年も会っていない妹に、暇やろ、と唐突に言われて私は戸惑った。近くに住んでいるのだから、家に来いという妹の気軽な物言いを、不躾だとは言えないにせよ。 「なんでやの? 突然」 「事情は来てくれたら話すから」  妹は相変わらずのマイペースだ。 「また、暇ができたら行くわ」  私は生来の不精をあらわにする。  もう、と小さく呟き、 「ちゃんと日ぃ決めて、近々来てほしいねん」  と妹は、焦れったそうに言った。 「四日か五日、泊まるつもりで」 「そんなん、いややわ。会社に行かれへん」 「お姉ちゃんの会社って、大阪市内やろ」 「そうや」 「ここから大阪市内に通ってる人なんて、ごまんとおるで」 「私、歩いて通勤してんねん。もう何年も、あんなぎゅうぎゅう詰めの通勤電車なんて、乗ってへん。今さら、乗られへんわ」 「お姉ちゃんって、わがままやなあ」  十年も一人で暮らしている私は、いつも簡単にわがまま気ままだと言われてしまう。 「あんたにはわがまま言うてへん。せやから、あんたも私にわがまま、言わんとって」  私の声は尖っていた。そして、一瞬、しんと静まった受話器の向こうで、子供の泣き声がした。 「なあ、お姉ちゃん」  今度は哀れな声を出してみせる妹に、そしてたかだか妹の家を訪れるかどうかといった些細な話の行き違いに、私の波だった感情は急速に退いてゆく。 「どないしたん?」 「あいつ、また出ていってしもて。下の子の夜泣きはひどいし。上の子は僻《ひが》むし」 「えっ、下の子って?」 「年明けに生まれてん」 「そう」 「一人で大変やねん。おちおち寝てられへん。ちょっと来て、上の子だけでも見てもらわれへん? あの子の相手、でけへん」 「そうやなあ」 「な、ええやろ」 「じゃ、土・日だけなら、ええわ」 「……うん」 「今度の土・日に行くから」 「場所分かる?」 「河内長野の駅やったなあ」 「そう。でも、迎えには行かれへんで。子供おるし」 「分かった。なんとか行くから」  じゃあ、と言うなり妹は電話を切った。  暦の上では春ですが、という天気予報番組のアナウンサーのセリフを、毎年の今頃、必ずと言っていいほど、聞いている。それならば、暦の上での春の時期をそろそろずらせてもいいんじゃないか、と思うが、そういうわけにもいかないらしく、私は、今朝もそのセリフを聞き、冬拵えの服装で固めて地下鉄の駅に向かった。  難波まで一駅乗り、私鉄に乗り換え、急行電車で約四十分。降り立った河内長野の駅は、身も凍えるほどの寒さに包まれ、間近に枯れ果てた山が迫り、空気は侘しい灰色に色づいている。バスのロータリーがある南側出口の改札を出ても人影はなく、時折、乗せる人もいないままバスが発車をする音や、歩行者用信号機が青に変わった時に鳴る童謡のメロディーが響いているばかりだ。他には何もない。  電車が駅に入る時に目についた商業施設の並びは、どうやら北側出口らしい。駅前の喫茶店にでも入って煙草を吸おうと思っていたが、駅の反対側に廻るのは面倒で、私は、改札を出てすぐの備え付けの灰皿の前で煙草を一本吸った。  改札の横の小窓から、駅務室の奥の駅員に向かって呼びかけ、出てきた若い駅員に妹の住所を言って、何番のバスに乗るべきでしょう、と尋ねた。 「バスのことは分かりませんね」  あっさりと若い駅員は言い、そうですか、と私が言い終わらないうちに、 「あ、思い出した。うちにその近辺の人がおるから」  と言って、再び奥に消えてゆく。  戻ってきた駅員は、 「五番乗場ですね」  とにこやかに言った。深々と頭を下げ、私は売店の横の公衆電話に向かう。 「今からバスに乗るから」 「そう。何番乗場か、分かった?」  今朝、部屋を出る前に掛けた妹への電話で、妹は、随分バスなんて乗ってないから何番乗場かは忘れてしまった、とけろりとして言ったものだが、少しは気が咎めていたのだろうか。 「うん、分かった。停留所は烏帽子《えぼし》池公園前やね」 「そう。その公園の前のバス通りを五分くらい、乗ってきたバスの進行方向にそって歩いたところやから」 「うん。じゃ、今から行くから」  受話器を戻し、私は五番乗場に向かう。  乗場の時刻表を見上げていると、時刻を確かめないうちに、行き先のバスが現れた。  いそいそと乗り込んだものの、時間調整のためかバスは五番乗場に横付けをしたまま五分ほど動かなかった。開けっ放しのドアから流れ込む冷気に思わず貧乏揺すりをしていると、ぷしゅっ、と音がして唐突にドアが閉まり、そのバスはようやく発車した。  見る見る山奥に連れていかれるようで心細くなっているところへ、多分、名刹なのだろうが、昔話に出てくるような古ぼけた大きな寺が見え、郵便局を通りすぎると、山に沿って折れ曲がったカーブの先に閑静な住宅地が現れた。こざっぱりした小さな庭のついた、二階建ての同じような家が建ち並び、妹がこういうところに住んでいるのかと思うと、意外な気がした。商業地域の1DKのマンションに住む私よりも、堅実で、人間の生活の匂いがする。  誰も降りず、誰も乗らない停留所を四つか五つ、通り過ぎたところで、車内アナウンスが、次は烏帽子池公園前、と告げた。バスに乗ったのは何年かぶりで、慌てて降車ボタンを押して財布をかばんから取り出し小銭を数えていると、間もなくバスは停まった。 「ありがとう」  子供の頃に通ったスイミングスクールの行き帰り、バスに乗ったら、降りぎわには必ず運転手に元気よく言った挨拶の習慣が、体から抜けてはいないことを知って、びっくりする。自分の声ではないような、元気で無邪気で幼い声。 「気を付けてね」  制帽から白髪がのぞく運転手は、優しい声でそう言った。  五分ほど歩くと、戸建ての家と家に挟まれた、木造の古びた二階建てアパートが見えた。道々、門扉の表札に注意をしていたのだが、妹の苗字はなく、もしかしたらこのアパートかもしれない、と思って近づいてみると、上の方からお姉ちゃん、という声がする。  見上げると、二階の階段奥の一室の開いた窓から、妹の顔がのぞいている。  軽く手をあげて応え、階段の手すりに取り付けられた〈楓荘〉という看板を見て、そう言えば妹の年賀状に書いてあったな、と思い出した。こんなアパートなら、もっと便利な土地にでもたくさんあるだろうに、と自分が迂闊《うかつ》だったことを棚にあげて舌打ちをする。  鉄製の錆びた階段を上り、奥へと向かう。チャイムを押す前にドアが開いた。 「ようこそ」  妹の顔は、疲れきっていた。一重瞼は力なく垂れて瞳をおおい隠し、小鼻から口角に伸びたしわにそって、頬の肉がたるんでいる。茶に染めた髪は、水気を失って一本一本がそそけだっていた。  三和土《たたき》に上がりドアを後ろ手に閉めた時、私は、玄関の上がり口に立つ妹のジーンズの足に、私と同じ顔の小さな子供がしがみついているのに気付いた。ふとももの辺りから小さな顔をのぞかせじっとこちらを見つめているその女の子の写真を年賀状で二度ほど見たが、実物を見ると、私の子供ではないかと錯覚しそうなほど私に似ている。 「れいこ、ほら、ご挨拶は?」  妹は、その小さな子供の頭を小突くように、撫でた。ああ、そう言えばれいちゃんだった、と私は思う。  子供は、慌てて母親の足の陰に隠れ、もう一度そっと顔をのぞかせる。典型的と言っていい子供らしい動作に私は笑った。 「れいちゃん、こんにちは」  靴を脱いで上がりながら、私は言った。  子供は、恥ずかしげに小さな笑みを口許に浮かべ、先に行く母親に追いすがる。  玄関を上がってすぐ台所がある造りは、私のマンションと同じだが、家族で住むせいか、スーパーの袋に物を詰めてそこいらに転がしてあったり、食器が流しにもテーブルの上にも雑然とあったり、そもそも年代を帯びたガス給湯器や剥げた塗り壁が侘しく、全体にうらぶれた感じを否めなかった。  奥には和室が二間あったが、台所につながっている六畳にもその横の四畳半にも、整理棚代わりの安物のカラーボックスや、天板の縁がとれてささくれが目立つこたつやら、私たち姉妹が子供部屋で使っていた電気ストーブやらが雑然と置かれ、私は思わずため息を漏らした。大型のテレビだけが、場違いな威圧感をもって部屋の隅に据えられている。  電気の入っていないこたつに足をつっ込み、勝手にスイッチを入れて、開いた引き戸の向こうの台所に立つ妹の背中に目をやる。なんだか老けたな、と思った。久しぶりに会うと、そんなものだろうか。同じくらいに私も老けているのだろう。私はこたつのささくれを何となくむしっていた。 「お待たせ。インスタントのコーヒーやけど」  と言いながら盆を持ち、足元に子供を従えた妹が、部屋の入り口に立った。 「ケーキを買ってきてんけど」 「うん、さっき箱が見えたから」  と言い、妹はこたつの上に盆をのせた。盆にはマグカップの他に、からの皿とフォークが載っている。  どうして子供の父親が出ていったのか、いつも通り、またすぐに戻ってくるのか。気にならないわけではなかったが、妹が口にするまでは訊くのもはばかられ、他には何も話すことがない私たちは黙々とケーキを食べ、コーヒーをすすった。子供の、ぴしゃぴしゃという咀嚼《そしやく》の音がいちいち神経に障る。 「れいこ、ほら、お姉ちゃんが、イチゴをあげるって」  妹が自分の脇にぴったりくっついた子供に言った。 「お姉ちゃんやて。おばちゃんでええよ」  私はケーキを刻みながら言った。「おいで、れいちゃん、イチゴあげる」  こうして、最後に残した自分の好物をいつも妹にとられ、しまいには好みなんてなくなってしまった子供の頃を思い出して私は思わず微笑んだ。私は妹が好きだった。そんな自分が少し、懐かしい。  子供が、微笑む私を見つめ、もぞもぞと体を揺すって、立とうかどうしようか迷っている。 「ほら、行きなさい」  妹に急かされ、私に手招きをされて子供は立ち上がり、私の横に来てぴたりと体を寄せてこたつに足を入れる。すえた臭いがぷんと鼻をついた。  私はイチゴをフォークに突き刺して、子供の口に運んだ。 「れいちゃん、イチゴ、好きなんやね」  何となく言った言葉に、子供は、分からない、といった表情をして首をかしげる。バッグの中からポケットティッシュを出して、その子供の口のまわりの生クリームを私は拭き取った。 「じゃあ、れいちゃんは何が好き?」 「けんくん」  即座に応えて、子供は、隣の四畳半を指さした。細く開いた襖《ふすま》の向こうにベビーベッドが見えたが、昼間というのに薄暗く、物音もせず、生物の気配がしない。ベビーベッドに寝かせられているのは、もしかしたら死んだ赤ちゃんではないか、と私はあらぬ想像をした。 「けんくんは食べられへんよ。食べ物では何が好き?」  私は、けん、だろうか、けんた、だろうか、それともけんいちろうだろうか、と思いながら言った。来てすぐに、妹にお祝いを言い、顔を見せて、などと言ってみるべきだった。 「……今、けんくん眠ってるの」  子供は得意気に私に言った。 「そう」  食べ物の話なんて、もうどうでもいい。 「けんくん見る? かわいいよ」  子供が私の腕をつかんで見上げる。小さな爪の先が、垢で黒ずんでいる。母親の目を意識して、その目に媚びる様子が痛々しい。れいこは、必要以上に弟をかわいがってみせるようだ。そうやって母親に愛されようとしている。 「けんくんは後で見るから」 「あとで?」 「うん」  子供の頭を撫でると、子供は一層私の体に擦り寄ってくる。 「この子のこういうところが、嫌やねん」  妹が言った。 「ほんまは、けんが生まれて拗ねてるくせに、いい子ぶって」  私は子供を生んだ妹が嫌だった。 「お姉ちゃんに、子育ての苦労なんて分かれへんやろけど」  私は妹から目を背けた。三歳児だからといって分からない言葉ではないだろうに妹はよほど疲れているのだろうか。 「れいちゃんはいい子よね」  子供は何も応えない。俯いているせいで、小さな頭のつむじが見えるばかりだ。 「お姉ちゃんは何も分かってへん」  妹の声がヒステリックに響いた。久しぶりに会ったというのに、私は既に帰りたくなっている。 「じゃあ、何を分かったらいい?」  私の声は老女のように嗄れていた。 「…………」 「どうしたら、あんたに気に入ってもらえるの」  透明なガラス戸の向こうの物干し場の手すり越しに、山がざわざわと揺れている。外はとても寒そうだが、電気ストーブのファンの音が、それ以上に侘しく、寒く、私の耳についた。 「ごめん」妹は言った。「寝不足で、少し疲れてるみたい」 「みたいやね」 「ちょっと寝てもいい?」 「ええよ」 「れいこ、見ててくれる?」 「うん」  妹は立ち上がり、三枚組みの襖をぴっちりと閉めて、暗い四畳半に姿を消した。ふとんを乱暴に敷く音が聞こえる。育児ノイローゼというものだろうか、と私は赤の他人のような遠さで思った。気ままに自由に、自分の血を残しているくせに。 「れいちゃん、お昼御飯は食べたの?」  俯いたつむじが、横に振れた。 「じゃあ、何か作ってあげる」 「…………」 「何が好き?」  私は立って台所の冷蔵庫を開けてみた。中には牛乳とマーガリンとしなびたほうれん草と卵が三つあるだけで、冷凍庫の中は空っぽだった。けんくんは、そういえば、まだ母乳なんだろう。 「れいちゃん、お買い物をするところ、知ってる?」  ぴたりと私にくっついている子供を見下ろすと、子供の頭がこくりとうなずいた。 「じゃあ、お買い物に行こう」  鍵のありかが分からず、私は鍵を掛けないまま、子供の手をひいて部屋を出た。  公園の向こうにあるというスーパーの手前にファミリーレストランを見つけた私は、急に食事を作るのが億劫になって、れいこの手をひき、中に入った。  昼時のせいで店の中は混み合い、私たちは十五分も店の入り口で待たなければならず、その間、れいことは一言も口をきかなかった。  ようやく順番が廻ってきた時、店員が、お子様用の椅子をお持ちします、と言い、ああ、そういえばそうだ、と思いながら、店員にうなずいてみせ、その拍子にふと目をやると、間の抜けた笑顔を浮かべて、れいこはぼんやりと私を眺めている。  お子様用の椅子に収まったれいこは、他の子供に比べて服装も髪の艶もみすぼらしく、私と顔が似ているだけに、私はそういうれいこを恥じた。 「れいちゃん、お子様ランチでいいね?」  私はエビピラフを半分残して店を出た。食事の間じゅう、私は神経質にれいこの口許を拭い、そのせいで、れいこの口のまわりの柔らかい皮膚は、荒れて赤く色づいてしまっていた。  スーパーに寄って、一階でミネラルウォーターと適当に夕食の材料を買い、二階の日用品売り場で三歳児サイズの赤いトレーナーと紺地に黒い縁取りのあるフリースのスカートを買った。両方とも九八〇円均一セールの割りには、見栄えがし、れいこはその買い物袋を自分が持つと言って小さな胸に抱きかかえた。 「けんくんにはないの?」 「けんくんは赤ちゃんだからいいの」  着古したベージュのセーターのれいこは、うれしげにうなずく。  部屋に戻り、襖をそっと開けて眠りこけている妹の様子を確認して、また襖を閉め、私は買った食料品を冷蔵庫にしまった。  れいこは、赤いトレーナーに首を通そうとしていたが、お風呂のあとよ、という私の言葉に素直にうなずいて、スーパーの袋の中に大事そうに、そのトレーナーをしまった。  自分の部屋にいる時は徹底してものぐさなくせに、人の家にいると、なんだか落ち着かないもので、私はれいこを風呂に入れようと思い立った。 「れいちゃん、お風呂に入ろうか」 「でも、まだお昼やのに」 「お風呂に入ったら新しいお洋服、着せてあげるよ」  れいこはこくりとうなずく。  私は、台所の脇の風呂場に立ち、蛇口をひねった。水が浴槽にいっぱいになったところで、古めかしい湯沸かしの銀色のコックをひねる。  バッグから、プラスチックの小びんに詰めてきたシャンプーとトリートメントを取り出した。茜が宅配便で送ってくれたうちで、一番気に入っているもので、これを使うと髪の通りが良くなって艶もでるという茜の言葉通りの働きをし、私の愛用品となった代物だ。 「れいちゃん、これで髪の毛、洗ってあげる。ぴかぴかになるよ」  れいこは、それがどうしたんだろう、といった表情で首を傾げる。 「れいちゃん、もっとかわいくなるよ」 「…………」 「ほら、服を脱いで」  私は腕をまくって、れいこを浴槽に浸からせ、開け放したドアの際に立った。 「おばちゃんは?」 「私はいいの」  浴槽の縁を両手でつかんで、れいこはぼんやりと私を見上げる。  狭い洗い場に裸足で立って、れいこの頭を念入りに洗った。顔に泡が垂れてきても、れいこはじっと我慢をしているようだった。体も爪の間まで、神経質に長い時間をかけて洗ったが、れいこはぼんやりとされるがままになっていた。 「れいちゃんのパンツはどこにあるの」  風呂あがりのれいこの体を拭き終わった私が尋ねると、れいこは、狭い脱衣場の隅の小さな整理棚の一番下の引きだしを開けた。 「えらいね、自分でできるんやね」  私は、綿の白いパンツを穿いたれいこの頭を撫でた。  値札を取ったトレーナーとスカートを着せ、れいこが奥の部屋の箪笥から出してきた靴下を穿かせると、私にはすることがなくなった。れいこはやけにこざっぱりとしている。 「れいちゃん、何して遊ぶ?」 「れいこ、絵本読んでる」 「そう」  れいこはカラーボックスから体に余るような大きな絵本を取り出した。こたつに座った私の体に寄り添って、その膝の上に絵本を拡げる。手のかからない子供だった。  私はこたつをそっと抜けて、体の形に穴が開いたこたつぶとんを押さえつけ、携帯灰皿とシガレットケースを持って物干し場に立った。子供がいると、煙草を吸う場所さえ限られてしまう。ガラス戸を閉める時、絵本から目をあげたれいこと視線が合ったが、れいこは無表情に絵本に目を戻した。  春まだ浅い午後三時の日差しは、弱く、うつろで、この日の下に、豊かで心穏やかな生活なんてあるとは思えなかった。  れいこはやっぱり淋しい子供で、父親は不在も同然で、母親はいつもいらだっている。おそらくけんは、体が大人になった途端に近所の女の子を孕ませて、家を飛び出してゆくのだろう。  煙草の煙が細くたなびき、すぐに風に煽られて形をなくしてゆく。二本目を吸い終わってもれいこの傍に戻る気がしなかったが、さすがに体が冷えてきて、私は部屋に戻った。  妹が寝ている部屋からはことりとも音はせず、手持ち無沙汰にバッグから毛糸と編み棒を取り出した時、絵本から目を上げたれいこが、なあに、と言った。 「マフラーを編むんよ」 「まふらあ?」 「首に巻いたら、お外に出ても寒くないの。ほら、こうして」  私は自分がしてきたマフラーを首に巻き付けてみせた。 「れいちゃんに、編んであげようか?」  私は自分の思いつきに、なんとなく浮き立った。 「うん」 「いろんな色のかわいいマフラーにしてあげる。れいちゃん、きっと似合ってかわいいよ」  私は、赤と黄色と青と緑と白の毛糸を一巻きずつ持っていた。 「嫌いな色はある?」  れいこは勢いよく首を横に振る。 「じゃあ、これ全部で、縞模様にしよう」 「うん」  恐らく私の言葉を理解しないままに、れいこは声を張り上げて、精一杯の可愛げのある返事をする。  私が赤い糸から編み始めると、れいこは食い入るように私の手元を見つめた。そして、十段ほども編むと、 「れいこのセーターと同じ」  と呟いた。 「そうね。おんなじやね。れいちゃんはえらいね」  女の子だけに、ニットか、綿やポリエステルの織物かといった区別が三歳児でもつくのだろうと、私は感心して言った。 「セーターができるの?」 「違う。もっと細長くていろんな色で、巻いたらすっごく、かわいいのができるの」 「どうしてセーターになれへんの?」 「どうしても」 「どうして?」 「おばちゃんはね、だから、袖とか襟ぐりの始末とか、どうしたらいいんだか知らないの。だからセーターはできないの」  面倒になった私はわざとれいこには理解不能な言葉を投げやりに吐いた。事実、私は中学校の家庭科で習った表編み一辺倒だった。 「もっといろんな色のかわいいのができるの?」  れいこは、私の言葉が分からずとも、何か取り繕うような表情を見せていた。 「そうよ。だから、おとなしく待っててね。首にまきまきしてあげるから」 「うん」  れいこは、赤色の次に緑をもってきた私の手元をじっと見つめる。  れいこは飽きもせずに私の作業を見守り、私は、全ての色を使いおわり、また赤に戻ろうかという頃になって、さすがに飽きてきた。 「れいちゃん。おばちゃんね、煙草吸ってくるから」  再び物干し場に出た時には、すっかり夕闇が舞い降りた住宅地は、無気味なほどの静けさに沈んでいた。手すりに胸を押しつけてもたれかかり、煙草三本を立て続けに吸いながら、なぜわざわざ外に出て吸っているのだろう、と今さらのように思った。構いやしない。四本めの煙草を右手指にはさんで部屋に戻ろうとした私は、ガラス戸の向こうに気付いて、胸に火がついたように、かっとなった。 「れいちゃん、なにしてるの」  ガラス戸を音をたてて開けるなり、私は叫んだ。  首や腕に赤やら黄色やらの毛糸を巻きつけたれいこは、びくっと体を震わせて私を見上げる。毛糸はもつれにもつれて、まるでれいこの体は蜘蛛の巣に巻き取られたようだった。 「だって」  れいこは涙ぐんだ。  涙ぐむれいこにも、これだけの物音がたちながら起きてこない妹にも無性に腹が立った。 「あぶないでしょ。首が締まったらどうするの」 「だって、まきまきしたら、れいこ、かわいいって」  しゃくりあげながられいこは言う。  れいこがみすぼらしく見え、それ以上に私自身がみじめだった。  れいこは生まれてきてはいけなかったのだ。私は、一滴の血もこの世に残すつもりはないというのに。  私はバッグからハンカチを出してれいこの顔を拭った。泣いた顔も私そっくりだった。 「ごめんね、れいちゃん。おばちゃん、こわかったね」  れいこは俯いて膝の上に置いた手をじっと見つめる。頑なな意志を首筋に滲ませ、微動だにしない。カラーボックスの上の古びた置き時計の秒針の音がうるさく耳についた。 「立ちなさい、れいちゃん」  心細げな目がようやく私を見上げる。 「毛糸、解いてあげる」  れいこはおずおずと立った。体にふわりと巻き付いた毛糸を鋏で切り刻みながら、私は言った。 「もっと、ちゃんと、かわいく縛ってあげる」 「…………」  私は鋏をこたつの上に置き、毛糸の屑を払って、れいこの着ている物を脱がせ始めた。 「おばちゃん、寒い」  私は黙って電気ストーブを引き寄せた。 「おばちゃん」  れいこの声はか細い。私は優しく言った。 「かわいくしてあげるから」  素っ裸になったれいこの右腕の付け根に、私は赤の毛糸を輪を作ってくくり付け、包帯を巻き付けるようにきつく、ぐるぐる巻きつけていった。糸と糸の隙間からむっちりと肉がはみ出れば、その上から何度でも巻き付ける。 「ほら、れいちゃんの右手、まっかっか」 「かわいい?」  おどおどとれいこが訊く。 「うん、もう少し巻いたらね、この手首のとこまで」  およそ二十分ほどもかかって手首まで毛糸を巻き付ける頃には、れいこの指も掌も、紫色に膨れあがっていた。 「今度は左手。まっ黄色にするからね」  私は言いながら、黄色の毛糸を巻いた。左手も鬱血し、紫色に腫れあがる。  腋の下から尻までは青と白の二色使いで巻いた。二本を同時に巻くほうが、一気に巻けた。右足は右手に合わせて赤、左足は左手に合わせて黄色にした。 「れいちゃん、痛い?」 「ううん」 「もう寒くないでしょ?」 「うん」 「ぬいぐるみみたいで、れいちゃん、かわいい」 「ほんと?」  小声でれいこは言った。声を出す力がもうないのかもしれない。口の端からよだれが垂れている。私はティッシュでそれを拭った。 「首は緑色ね」 「うん」  れいこが死んでしまわないように、ゆるめに緑の毛糸を巻き付けた。次第に顔全体に紫がかった赤みがさしてくる。 「ほら、れいちゃん、よだれをたらしたら、あかん。せっかく、かわいいんやから」  私はもう一度れいこの口許を拭った。  れいこの両の眼球が、こころなしか浮き上がって見える。 「れいちゃん、苦しいの?」 「ううん」  れいこは、弱々しく微笑む。そして、かわいい? と訊いた。 「うん、すっごい、かわいい」  私はれいこの背中を支えて、部屋の真中に寝かせつけた。ごぼごぼというれいこの咳は、胸が苦しいせいだろうか。もう一度、よだれを拭いた。よだれは、小さく泡だっていた。  私は誰も殺さない。誰も生まない。何物にも関わらない。だが、せめて、母なるものに、見せしめを。 「れいちゃん」  れいこは、充血した目でとろんと私を見上げた。 「おばちゃんは、これから出ていくから」  頭を撫でるとれいこは、うん、と小さく頷いた。 「おばちゃんがドアを閉めたらね」 「…………」 「大きい声で泣きなさい」 「…………」 「声が出る?」 「……うん」 「じゃあ、ドアが閉まったら、泣きなさい。そして、お母さん、助けてって言うの。大きい声で。分かった?」 「……うん」 「お母さん、助けてって言うのよ」  半ば朦朧としたまま、れいこは頷いた。  バッグをつかみ、玄関まで走ってドアを閉めた途端、薄い戸板越しに、れいこが力をふり絞って泣く声がした。多分、堪《こら》えていたのだろう。掠《かす》れてはいるが、充分に大きい泣き声だった。ばん、と襖の開く激しい音がして、妹の叫び声が聞こえ、私はドアから身を離して錆びた階段を駆け降りた。息を切らせて走る夜道に星が瞬き、その光は次第にぼやけて滲んでいった。 [#改ページ]   見ていてあげる [#5字下げ]1  サスペンスもののビデオを観て、ごろごろと寝たり起きたりしながら互いの感想を言い合い、その後、ネットのオークションをチェックし始めた和也の背後からパソコン画面を覗きこむと、どうやら、八万円分の旅行券が当たるというビール会社の懸賞の、応募シール貼付ずみの応募券に入札しているようだった。現在、千円ちょうどの値がついている。残り時間、二日と二十一時間。 「それを競り落としても、応募して結果が出るまで、当たるかどうか分かれへんねやろ?」 「うん、そうや」 「その前に、競り落とせるかどうかも分かれへんねやなあ」 「まあね」 「えらい気の長い話やなあ。ほんで当たったら、どこに行くの?」 「別に、まだ決めてない」 「当たったら、私も連れていってくれる?」 「ああ。でも多分、当たれへんやろけど」 「私、長崎とか、ちょっと行ってみたいなあ。まだ行ったことないし」 「うん、ええよ」 「和くんは行きたいところ、ないの?」 「うーん。急には思いつけへんなあ」  急には、って旅行券に応募してるんじゃない。そう突っ込もうとすると、和也の横顔は、なんだかふわふわと眠たげに瞬きをした。 「……私、そろそろ帰ろうかな」 「そう?」  和也はやわらかい笑顔を見せた。茶飲み友達ならぬ、茶飲み彼氏だ。  南に向く二階の部屋は、日曜の午後の日差しを遮光《しやこう》布のカーテンで遮られていても、カーテンの緑の色に薄く染まって、ほの明るい。和也の部屋は、学生時代から全くと言っていいほど変わらない。勉強机も本棚も、私が長年見慣れたものだ。掛け時計に目をやると、針は四時を少し過ぎたところを指していた。  ハンカチや携帯をぐずぐずと手提げバッグにしまいながら、私は、彼の視線を感じていた。まだいいじゃない、と引き留めない彼は、これからきっと昼寝でもするつもりなのだろう。  部屋を出て階下へ下りてゆくと、足音を聞きつけたのだろう、和也の母親が、 「あら、綾ちゃん。帰るの? 晩ご飯、食べていけばええのに」  と、小さく開いたドアの向こうから声をかけてきた。リビングに顔を覗かせた私に、彼女は、和也と似た笑い顔を見せる。 「和くん、眠そうやし、今日は帰るわ」 「あの子は、ほんまにもう。せっかく綾ちゃんが遊びに来てくれてるのにねえ」  彼女は、大袈裟にため息を吐いてみせた。 「せやけど、外はまだ暑いよ。……少しここで涼んでいけば?」  ノースリーブの部屋着用ワンピースから覗いている丸い腕の肉がぷるぷると震えている。彼女は、アイロンがけをしている手を休めるでもなく、私を見つめて微笑んだ。 「私も、通勤服のアイロンがけとか、せなあかんし」 「綾ちゃん、会社、もう何年め?」 「えっと、七年目かな」 「そう。じゃ、和也も、ちゃんとお勤めしてたら、七年目やねんねえ」  亡くした子の歳を数えるような口ぶりで彼女は言い、そうしながら、私との会話を引き延ばしているように見えた。この家の居心地は悪くはないし、彼女とのおしゃべりも決して嫌いではないのだが、私はドアから顔だけ突っ込んだ警戒状態のまま、じゃあそろそろ、と言った。 「ほんまに、もう帰るの」  彼女は諦めたように、アイロンを台の上に置く。 「うん。また来させてもらうね。ありがと、おばちゃん」  彼女に見送られながら玄関の三和土《たたき》に立つと、背後から甘い香りが漂った。さっき、おやつに出してくれたチーズケーキは、彼女の手作りらしい。その香りが、彼女の体に、まだほのかに残っているのだろう。 「チーズケーキ、ご馳走さまでした」 「あっ。あれ、どうやった?」 「すごくおいしかったよ」 「じゃあ、綾ちゃんのお母さんにも持って帰ってよ。残り物で悪いけど」 「そんなん、悪いから、ええよ」 「ちょっと待ってて」  彼女はすでに背中を見せて小走りにスリッパを鳴らしていた。  こんなにいい母親なのに。  と、ふと思い、いい母親だからどうだと言うのだろう、と思い直した。 「お母さんによろしくね」  戻ってきた彼女は、小さな紙袋を持った腕を私に伸ばしてそう言った。  数歩歩いて振り返ると、まだ彼女は玄関先に立っていた。手を振ると、彼女も振り返す。それからしばらく歩いて振り返っても、まだ彼女の小さい影が目に入った。踏切を越えたら、いくらなんでももう家の中に入っただろうと、振り返らなかった。  敬語を知らなかった子どもの頃の彼女へのしゃべりかたは、途切れなく続く関係性のせいで、今も変わらない。まるで実の親子のようにしゃべっている自分をふと意識して、このごろは、それに少し戸惑いを覚えることもある。  十分も歩かないうちに、自宅が見える。まだ暑いから涼んでらっしゃい、とも言えない距離だ。 「また和也くんとこに行ってたの?」  母は、顔を合わせるなり、そう言った。リビングのテレビには、旅番組なのだろうか、青い山をバックにした露天風呂が映っていた。 「うん」 「綾子、いい加減にしぃや」 「何が?」  思わず声が尖る。母が何ごとかを応える前に、私は急いで二階の自室に引き揚げた。母の言いたいことだって、分かる。だけど昔は、和也と付き合ってることを喜んでくれてたじゃないか、という思いもあった。  もらって帰った紙袋から、アルミ箔に包まれたケーキを取り出し、かなりの量があったが、手で小さく千切りながら全て食べてしまった。母に食べさせては、和也の母親がかわいそうな気がしたのだ。  こうして周囲が右往左往している間も、和也はとりとめのない時を過ごしている。私は私で、三人分はあろうかというほどのチーズケーキを食べ尽くした後になって、太ることを気にしている。つくづく不毛だ。 「綾子、綾子」  階下から、母の甲走った声が聞こえた。 「はあい。どないしたの?」 「休みの日くらい、晩ご飯作りなさい」  専業主婦である母は、家事が大嫌いなのだ。「専業主婦ほど損な役回りはない」というのが口癖だったが、そのくせ、外で働く気もさらさらなさそうだった。 「スーパーに行ってくるけど、何食べたい?」  階下に下りてリビングを覗くと、今度はクイズ番組をやっていた。 「そんなの、自分で考えてよ。こっちは年じゅう、献立を考えてるんやから」  母はテレビに顔を向けたまま言った。 「じゃ、シーフードカレーにするから。お金、ちょうだい」 「たまには綾子が出したらええやん」  カレーの嫌いな母はむっつりしている。 「毎月の食費、入れてるやん」  母はちらりと私を見て、のそりと腰と手を伸ばし、脇の小引出しから財布を取り出した。 「でもシーフードやて、なんや、お父さんに悪いやん。どうせ手ぶらで帰ってくるんやろし」 「……そっか。お父さん、釣りに行ってんねんなあ。じゃ、普通のカレーにするわ」 「暑いから、もう少しさっぱりしたものにしてよ」  少し弱気になった母の声に、私は途端にほだされた。 「じゃあ、何が食べたいの?」 「……」 「ほな、お母さん、一緒にスーパーに行こうよ。そうや、途中に、おいしいケーキ屋さんができたの、知ってる?」 「ああ、あの角の? 入ったことないけど」 「じゃ、そこに寄って、ケーキ食べようよ」 「お化粧もしてないし、面倒くさいわ」 「眉描いて、ちょっと口紅を塗ったら、充分やん。行こうよ」  しゃあないなあ、と呟きながらも、母は満更でもなさそうな顔をして腰をあげた。  もうこれ以上、今日はケーキを食べたくない。と、自分の腹具合をまるで他人事のような鈍感さで気づいた時には、すでに母はテレビを消して、いそいそと足早にドレッサーのある二階の寝室に向かっていた。コーヒーだけにすればいいや、とひとりごちてみたが、きっとその場に至れば、私は母に合わせてケーキを頼むのだろう。  いつの間にやら、ガラス窓の向こうの陽は随分傾いていた。エアコンで冷えきったリビングは、椅子の背もたれまで冷え冷えとしている。しばらく待っていると、ぱたぱたと階段を駆け降りてくる足音が聞こえ、やけにくっきりと化粧を施した母の顔がドアから覗いた。  まだ顔つきに幼さの残る駅員が、改札を抜けてゆく乗降客の群れに、「ご乗車ありがとうございました」と、声を張り上げている。 「和くん、今、何してたの」  私も少し声を張り上げた。 「ああ、雑誌読んでた」  和也の電話ごしの声はいつも低く落ち着いていて、その声を聞くと、逆に私は落ち着かなくなる。人里離れた廃屋にぽつりと一人で寝起きする男の姿を、思わず連想してしまうのだ。  私と同じ電車から下りた人々が、続々と目の前を通り過ぎてゆく。大阪南郊のベッドタウンに位置する駅には、夕方遅めのこの時刻、会社帰りの人たちがあふれかえる。高架駅の改札を抜けて、和也の家は左の階段側、私の家は右側だった。その改札をまっすぐ進んだ突き当たりに立って、私は若い駅員のよく動く喉仏を眺めながら、廃屋の中の和也の姿を頭の中に浮かべていた。 「今日、仕事が早く終わってんけど、ちょっと寄っていい?」 「ええよ」 「今、もう駅やから、十分くらいで行くね」  携帯を切って、駅前のコンビニでビールを買い、一つおいた隣の花屋でひまわりを五本、買った。線路に沿った道を歩いている時、しげしげと和也に会いに行く自分を、ふと不思議に思った。 「おばちゃん、これ」  玄関に出てきた和也の母親にひまわりを手渡すと、彼女は、ああきれい、と顔をほころばせた。 「こないだのチーズケーキのお礼。母もおいしいって喜んで、くれぐれもよろしく、って」 「そう。良かったわ」  勝手知ったる他人の家で、私は彼女としゃべりながらも、玄関を上がってさっさと足を二階に向けていた。 「あ、綾ちゃん。晩ご飯、どないする?」 「うーん。明日も会社あるし、また休みの日にでも」 「そう、残念やねえ。いっつも和也と二人きりやから、おばちゃん、寂しくてね」 「……じゃ、今度の土曜日、およばれしていい?」 「うれしいわぁ。土曜日ね」 「和くんの都合、どうやろ?」  私は階段の途中に立ち止まったまま、和也の母親の少し薄くなった髪を見るともなく見ていた。 「ああ、和也はいつでも暇よ。そう、土曜日ね。綾ちゃん、何食べたい?」 「何でも。私、好き嫌いないから」 「綾ちゃんの好きなちらし寿司にする?」 「うん。じゃあ、一緒に作るね。たいした手伝い、でけへんけど」  和也の母親はそれで納得したのか、お茶でも持って上がるわね、と行きかけた。 「おばちゃん、ビール買ってきたから、お茶はいいよ」  彼女は、「あらそう、じゃあごゆっくりね」などと言いながら、リビングに消えた。  まったく過保護だ、と以前に冗談まじりで和也に言ったところ、「綾ちゃんが来た時だけやで」と彼は笑ったものだが、それにしてもこの歳で、と思わないでもない。  ドアをノックして開けると、和也は、ベッドに寝転んでトレッキング関係の雑誌を読んでいた。 「へえ。トレッキング始めるの?」 「いや、別に。どんなもんかな、と思って」  こっちを向いて起き上がった和也は、「こういうのって、見てるだけで、山歩きしたような気分になるな」と言った。きっと今日も一日、ぼんやりと過ごしていたのだろう。 「土曜日、お食事会やって」 「え、また? まあ、しゃあないなあ。あれが、あの人の楽しみやねんもんなあ。俺、また生けにえかあ。綾ちゃん、付き合わせて悪いね」 「ううん。おばちゃんの料理、おいしいし。そうそう、ビール買ってきてんけど、飲む?」  小さなガラスのテーブルに向かい合って、缶のまま飲んでいると、ノックの音が響いた。 「綾ちゃん、これ」  ドアから顔をのぞかせた母親は、手にチーズとせんべいをのせた盆を持っていた。 「すみません」 「もう、いちいちいいって言うてるのに」  和也は、うるさそうに顔をしかめる。 「そうはいけへんよ。せっかく綾ちゃんが来てくれてるのに。ね、綾ちゃん」  彼女の足音が遠ざかるのを待って、「あんな言い方、悪いやんか」と言うと、 「うん、まあな」  と、和也はあっさりと認め、ぐびぐびと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。  特に話があったわけではなかった。週に一、二度くらい、なんとなく顔を見て帰る習慣が、ここ数年の間にできあがっただけのことだ。和也も、いつもなんとなく私を迎え、いつも同じ調子だった。そんな和也の顔を眺めていると、 「来年は三十かぁ」  と、ふと呟きが漏れた。 「そっか。お互い、三十か」 「三十にして立つ! って言うよねえ」 「ああ、言うなあ」 「和くんは立てへんの?」 「それ、どういう意味?」  ふっと和也が笑った。 「変な意味ちゃうよ」 「そっか」  静かな時間がまたとろとろと流れてゆく。例の応募券は競り落とし損ねたらしい。隣の子猫が迷い込んできた時の他愛もない話、テレビの話、私の会社の話、などと茶飲み話が続き、小一時間ほどが過ぎた頃、じゃあそろそろ、と言うと、送ろうか、と和也は言った。 「ええよ、まだ早いし」 「そう」 「明日はどないするの?」 「夕方から倉田の劇団の公演があるから、サクラを頼まれてんねん」 「へえ。倉田くん、元気?」 「ああ」 「よろしく言うといてね」  ドアを開けようとした時、背後で、ビール缶を潰す乾いた音が響いた。かしゃ、というその音を聞いた途端、もう一言、何か言いたいような気がしたが、なんとなくそのまま部屋を出てしまった。今さら、私は何を言いたいというのだろう。  家に帰り着き、リビングをぬけて洗面所に行こうとする私に、母は、ああそうそう、と声をかけた。 「忘れんうちに言うとくけど」 「ん? なに?」 「和也くんとこって、今年、十三回忌とちゃう?」 「あ、そうかな」 「多分、そうやで。あれ、綾子が高校二年の時やったやろ?」 「そっか」 「お盆も近いんやし、今度行く時には、何かお供え物を持って行きなさい」 「あ、うん」 「行くな言うても、どうせあんたは、ちょこちょこ行くんやろし」  母はそう言うと、持っていた爪切りで、手の爪をぽつぽつと切り始めた。 [#5字下げ]2  倉田の公演はわりに盛り上がり、和也はその劇団の打ち上げにまで付き合ったらしい。昨日深夜の電話で、飲みすぎた、と疲れた声を出していたから、今日もきっと、家でごろごろしているはずだ。  片桐が、いつもの何食わぬような顔つきで近づいてきた。 「鮫島さん、午後から、忙しい?」 「いえ、大丈夫です」 「二時にツヅキにアポ入れてるんやけど、付き合ってもらっていいかな」 「いいですけど……」 「この企画書読んで、一緒にプレゼンしてほしいねん。いかにも女性の目線で、って感じで」  そう言うと、片桐は、企画書を私の机の上に置き、じゃあよろしく、と背を向けて行ってしまった。  二時までに読めるのかと思うくらいの分厚い企画書だが、どうせいつもの使い回しだろう。このごろの片桐は、どの会社に対しても女性ターゲットで動いている。  ツヅキは道修町にある老舗の製薬会社だ。女性が好むサプリメントや健康食品などに力を注ぐべく、商品開発のアイディアやイメージアップのためにも女性従業員の増員、有効活用は必須だ、などと提案し、女性雇用の合理性やら利便性などの根拠として、他の会社に対しても使い回している資料をくっつけて、企画書を仕上げているはずだ。  企画書をぺらぺらとめくっていると、案の定、そんな感じだった。提出するそれぞれの会社に合わせて、サプリメントが女性向け家電や女性好みの飲料に適当に変わるだけなので、だいたいの予想はつく。  週刊求人情報誌の発行元でコピーライターをしている私は、たまに営業マンに同行して先方企業を訪れることもある。新卒採用や欠員補充など、そもそも企業側に募集の意思がある場合は、さっさと受注して求人広告を作ればすむ。それだけでは商売は成り立たないから、募集意思のない企業から潜在的なニーズを掘り起こすために、片桐のような営業マンは、企画書を駆使するし、コピーライターを引っぱりだしてプレゼンもする。  新卒で入社した会社で制作部に配属され、一カ月の新人研修を終えた途端に、私はコピーライターになった。それ以来、日にいくつもの求人広告を作り続けている。雇用条件を載せただけで枠がいっぱいになる十六分の一ページサイズから見開き二ページサイズまで、広告の大きさは様々だが、長引く不景気に、大きな求人広告を出す企業などそうそうない。多額の費用を出さずとも人はくるし、むしろ、目立つ広告を出して応募者が殺到すれば、その対応に手間を取られて困るということもあるのだ。 「バブルの頃なんて、電話帳くらい分厚い雑誌やってんけどねえ」  古くからいる先輩はそう言い、昔は社内旅行もあって海外に行ってたんよ、などとため息をついたりするが、旅行まで会社の人間と行くなんて、私ならまっぴらだ。  〈アットホームな会社です!〉  もう何度となく使った一行キャッチコピーをパソコンに打ち込み、営業マンが先方企業からヒアリングしてきた雇用条件を一つ一つ入力してゆく。コピーライターなどといっても、少なくともこの会社のライターに限れば、作業のほとんどがルーティンワークと言ってもいい。だけど、ルーティンが嫌いじゃない私は、今の仕事に満足している。たまに二ページものを担当して、「広告のクオリティ」などと営業マンの口から聞かされると、むしろ戸惑ってしまうくらいだ。  八分の一サイズのデータを全て打ち込んだ。午前中に仕上げなければならない仕事はとりあえず終わり、片桐から渡されたツヅキへの企画書にもう一度、ゆっくり目を通す。  ツヅキは片桐のメインスポンサーだ。三百人程度の会社で、そうたびたび中途採用の募集をかけるなど、よほど定着率が悪いのかとも思うが、片桐は淡々と、コンスタントにツヅキからの注文を取ってくる。数年前、たまたまそのツヅキの広告制作を担当して以来、ツヅキの広告は私が作ることに決まっていた。企画書によると、今回は、二百十万円の見開き二ページのカラー広告を提案しているようだ。ふと、ツヅキはこうして税金対策をしているのではないだろうか、と思うこともある。後腐れなく金を捨てるには、求人広告費用は手っ取り早い。一人も採用しなければ、後には何も残らない。 「あー、またツヅキですね。カラー二ページかあ。鮫島さん、いいなあ。私、カラーなんて作ったことない」  背後から企画書を覗き込んだのだろう、後輩の花ちゃんが、ため息混じりに言った。 「花ちゃんさえよかったら、担当、代わってあげてもいいよ」 「えー、いいんですか」 「うん。片桐さんに相談してみようか?」 「えーっと、やっぱ、いいです。なんか、片桐さんとの仕事って緊張するし」 「そう? 片桐さんって優しいでしょ」 「でもやっぱ、ファンとしては、遠くから見てるほうがいいです」  花ちゃんはそう言い、へらへらとした笑顔を見せて行ってしまった。  少し離れた席に座って電話をしている片桐に、後ろの大きな窓から柔らかい陽が差している。高層ビルにある、いかにも現代ふうなこのオフィスに片桐が在席している時、周囲にはなんとなく華やかな雰囲気が漂う。もともとは地味な顔立ちのはずなのだが、やり手の人間というものは、身にまとう空気どころか顔つきまで際立たせるものらしい。三年前に片桐は結婚したが、それでも社内の片桐人気は衰えないようだ。  やはり、いくら詳しく読んでみても、いつもの企画書となんら変わりなかった。いつも同じような企画書を使い回すくせに他の営業マンよりも数字を上げ、物静かなくせに力強さを感じさせる片桐は、人のいないところでは、私を「綾子」と呼んだ。  ツヅキの応接室に通されると、五分もしないうちに、経理・総務担当常務が現れた。 「お、今日は鮫島さんもお出ましかい」  常務はそう言って笑顔を見せ、ゆったりとソファに沈みこんだ。 「常務、早速ですが……」  片桐は企画書を手渡し、説明を始める。女性の好む健康食品に力を注ぐべきです、などと製薬業界には素人である片桐に言われても、常務はうんうん、と頷いているばかりだ。そのためにも女性社員を増やしましょう、うんうん、つきましては……、うんうん、と会話は続き、あっさりと契約は成立した。 「まあ、こういう企画書があれば、何かといいからね」常務はそう言い、ついでのように、「鮫島さんも、健康食品とかは好きなの」と言った。 「サプリメントは、毎日、十種類くらい飲んでますけど」 「へええ。近頃の若い人は、まるでサイボーグやなあ」  はっはっはっ、と声をあげた常務は、部下に命じて社印を押させた申込書を片桐に手渡した。  健康食品云々どころか、この会社の昔ながらの漢方薬は、不景気になったところで常に堅調に売れている。おそらく決算前に、少しばかり金を捨てたかったのだろう。私はといえば、たまには顔を出させようとの片桐の思惑のために、のこのこと同行させられたに過ぎない。  ツヅキの社屋を出たところで、「ちょっとサボれへん?」と片桐が言った。一時間半後の帰社予定時刻をホワイトボードに書いて出たが、商談がものの十五分ほどだったので、時間には余裕があった。 「いいですよ」 「お茶でもしよっか」  片桐はそう言いながら、さっさと歩き始め、碁盤の目状になった細い道をまっすぐに御堂筋の方角へ進み、その御堂筋に出る少し手前にあるカフェを「ここでいい?」と指差しながら、返事も聞かずに店の中へ入っていった。 「俺、ビールにするわ」  表から目立たない奥のほうの席に着くなり、片桐は言った。 「は?」 「今日の仕事は終わり。会議もないし、このまま適当に直帰するから。綾子はどないする?」 「どないする、って、私は会社に戻りますから」  ビールを飲む同僚の前で、まじめそうにアイスコーヒーなどを飲んでいると、馬鹿らしい気持ちにもなるが、片桐が相手だと、なぜかそういうものかもしれない、と思ってしまう。そういう片桐の雰囲気に、かつては惹かれていたのだろうとも思う。 「ツヅキさんって、一人くらいは採用するんでしょうか」 「さあ」 「さあって、広告を見て応募する人かて、おるのに」 「それを言えばお互い様やろ? 景気がいい時なんか、人手不足が深刻な会社を平気でやめて転職をする人間かて、なんぼでもおったんやから。俺は広告を取るっていう自分の仕事をこなしてるだけやで。一つ一つにぐずぐず言い出したら、多分、この世の何もかもが止まってしまうよ」  和也の顔がふいに浮かび、完全には否定できないような気持ちでストローを啜《すす》ると、ずずっと情けない音が立った。 「それよりさ」  片桐は、周囲をはばかるように声を少し落とした。午後三時、おそらく訪問先もなく時間を持て余しているのであろう営業マンたちが、ビジネス街にあるこのカフェのほとんどの席を埋めている。 「はあ」 「綾子、どないするつもりなん?」 「何がですか?」 「いや、もうそろそろ歳も歳やし」 「えらいはっきり言いますね」 「うん、まあ、こんなことを言うのもどうかと思うけど……」片桐は珍しくちょっと口ごもった。「別れた女がずっと一人でおるのって、なんか俺が不幸にしたみたいで、後味悪いねん。やっぱ、幸せになってほしいし」  まるで自分から振ったような言い草に、私は唖然としてしばらく片桐の顔を見つめていた。片桐は、悪びれもせずに見つめ返す。それどころか、その顔は、いかにも優しげな表情を作っていた。  社歴が三年先輩である片桐と付き合い始めたのは、私が入社二年目に入る春のことだった。社内恋愛を特にタブーにする社風でもなかったが、自然にばれるまでは、大抵のカップルはこっそり付き合う。私と片桐もそうして付き合い、皆にばれる前に別れたから、私たちのことは、おそらく社内の誰にも知られてはいないだろう。別れたい、と言ったのは私だった。 「そんな心配はご無用です」  ほんの少し笑ってみせた。そういえば、片桐らしい言葉だ。 「彼氏、おるんか?」 「さあどうでしょう? まあ、そこそこ楽しくやってますから」 「そっか。……じゃ、何かあったら言ってよ。相談に乗るから」  店を出ると、屈託のない笑顔を見せて片桐は行ってしまった。これから先、片桐には、俺が不幸にした女といった目で見られるのかもしれないと思うと、少しおかしかった。  あの頃、就職もせずに家でぶらぶらしている和也に、私のほうが煮詰まってしまっていた。大学を卒業してからとうとう一年が過ぎてしまったじゃないかと、心配する気持ちよりも責める気持ちのほうが日々に募っていったのだ。そんな折、ふいに片桐から誘われ、その押しの強さに惹かれたが、和也とも別れることができずに、二年ばかりこっそりと二股をかけ、しまいには、片桐のあまりのマイペースさにうんざりして、逃げ場を探すように和也のもとを訪れることのほうが増えたのだった。片桐に別れを告げた時、片桐は突然のことに戸惑った顔つきだったが、まあいいや、とひとこと言っただけだった。それ以来、それまで同様の何食わぬ顔をして、私と片桐は同じ職場で働いている。片桐は、私と別れて一年するかしないうちに結婚し、今では子どもも一人いる。結婚式には同僚として出席したし、子どもの誕生祝いには、制作部全体でお金を出し合ってベビーカーを贈るということで、当然、私も一員として紛れ込んだ。  和也が片桐の存在に気づいた気配は、なかった。ただ、いつ頃からか、私たちはセックスをしなくなっていた。和也のほうから電話やメールがくることもないし、ましてデートの誘いなんてのも、ない。このごろは、もっぱら私が和也の家を訪れてだらだらとおしゃべりをするといった付き合い方に納まっている。いつを境にというわけではなく、ふと気づけば、茶飲み友達みたいな関係になっていたというわけだ。  それを不思議に思うこともあるし、こんなものだと思うこともある。ただ、踏切を越えたところに子どもの頃から見慣れた少し古びた二階家があって、いつもそこには和也がいるのだという安心感が、私の中に根付いているような気はする。  私と和也は、幼稚園の年少組で同じクラスだった。家が近いこともあり、父兄参加の芋掘り遠足をきっかけに母親どうしも親しくなり、家族ぐるみの付き合いが始まったのだ。私たちは小学校、中学校と同じ公立学校に通い、学校では気恥ずかしいものだから知らんぷりをしても、やはり幼なじみの親しさがあった。高校で初めて違う学校に進んだのだが、それがきっかけだったのかどうなのか、その頃から私たちは恋人として付き合い始め、私はそのことにしばらく有頂天になっていた。和也は、私にとって、自慢の幼なじみであり、ひそかな初恋の相手でもあったのだ。  和也は、顔もかわいくて、勉強もスポーツも得意な、クラスでも人気者の男の子だった。明るくて、誰にでも優しい、ほんとにできた子どもだったのだ。初めて抱き合った時、小さい頃から知っているという恥ずかしさもあったが、幼なじみだからこそ、こうして和也に近づけたのだという思いがあった。  そして、やはり幼なじみだからだろうか、私は、和也と自分を切り離して考えることができなくなっていった。  だから、和也以外で寝た男といえば、私には片桐しかいない。初めて片桐と寝た時は、自分が和也以外の男と抱き合っていることを、我ながら意外に思ったものだった。  店を出た途端、あまりの暑さに、思わず空を見上げた。もう夕方に近い時刻だというのに、陽はまだ白っぽく照りつけている。  片桐は、日差しなどものともせずに、さっと背中を向けて行ってしまった。そういえば、どんな時でも平気そうな男なのだ。  帰社予定時刻までには、まだ余裕がある。会社に戻る前に心斎橋の大丸に寄ろうと思いつき、地下鉄に一駅乗った。明日、和也の家に持っていくお供えものを物色して、人の多い大丸の食品売り場をうろつき、干菓子だの果物だのを見ていたが、結局、和也の母親が好みそうな和菓子の詰め合わせを買って、会社に戻った。  大丸の紙袋を手提げバッグの陰に隠すようにして、そっと机の下に押し込んだ。そうして席に着いた途端、そのタイミングを待っていたように、花ちゃんが、お帰りなさい、と声をかけてきた。 「ただいま」 「ねえねえ、鮫島さん、知ってます? 片桐さんとこ、赤ちゃんが生まれるらしいですよ」 「へえ」  そんなこと、さっきはひとことも言ってなかったな、とは思ったが、いちいち私に言うものでもないのだろう。 「お祝い、どうします?」 「えー。もう二人目やから、ええんちゃうの。ほら、こないだのベビーカーも使い回せるやろし」 「こないだのって?」 「一人目の時の」 「あ。私が入社する前ですよね、それ」 「そっか。あの時、まだ、花ちゃんはおれへんかったんや」 「鮫島さん、ついこないだみたいな言い方するから、いつのことかと思いましたよ」  花ちゃんは、ふふふ、と笑った。 [#5字下げ]3  ドアチャイムを押すと、和也の母親がいつものエプロン姿で現れた。ドアが開いた瞬間、ぷんと甘酸っぱい匂いが漂った。 「おばちゃん、これ」  何と言おうかと迷いながら、私は菓子折を彼女の胸元へ突き出した。 「何?」 「えっと、仏さんにお供えしてもらお、と思って」  ああ、としばらく私を見つめた彼女は、ありがとね、と小さく言い、ゆっくりと微笑んだ。  玄関から直接仏間に通され、私は線香をあげた。障子を透かして西日が強く射し込んでいる。 「こんな立派なお菓子、頂戴して悪いねえ」 「うちの母が、今年は十三回忌のはずやから、って」 「そう。最近、全然会えへんけど、お母さんにもよろしく言うといてね」  彼女はそう言うと、仏壇を見上げた。正座をしたエプロンの下の大きな太股が、無意識に吸い寄せられたように、すいと仏壇のほうへにじり寄った。  仏壇には、彼女の夫と娘、つまり和也の父親と妹の遺影が飾られている。私と和也が高校二年生の時に、二人は事故死したのだ。  泥酔した女が運転する車にはね飛ばされた親子は、即死だった。当時はまだ危険運転致死傷罪も施行されておらず、女の罪は驚くほど軽くて、確かすでに刑期を終えているはずだ。  当時中学生だった和也の妹の優子は、彼女専用のパソコンを欲しがり、誕生日のプレゼントに買ってもらう約束を両親と取り付けた。そのパソコン選びに、優子は、パソコンに詳しい和也に付いてきてほしいと頼んだのだが、和也が断ったので、父親が付いて行くことになったのだ。いつもの癖で、車で出かけようとする父親に、「日本橋は車を停めるところなんてないから、電車にしたら」と言ったのは和也だ。ああそうか、と父親は応え、それが和也と父親の最後の会話になったらしい。父親と優子は、難波駅まで電車に乗り、駅を出て日本橋の電気屋街に至る細い路地を行きかけたところで、狂ったように飛び込んできた車にはねられたのだ。死亡した二人の他にも、数人のけが人が出る惨事だった。 「ついこないだのことのようにも、遠い昔のことのようにも思うわ」  和也の母親は、ぼんやりと遺影を見つめたまま、ぽつりと言った。なんと応えようか戸惑っていると、 「さ、綾ちゃん、向こうに行こっか。この部屋は暑いから」  よっこらしょ、とわざとおどけたようなかけ声をかけて、彼女は立ち上がった。  彼女についてキッチンに入ると、すでに、蓮根だの椎茸だの、ちらし寿司の具が下ごしらえされてテーブルの上に並んでいた。金糸卵も皿に盛られている。 「ほとんど出来てるんやね。ごめんね、手伝おうと思って、ちょっと早めに出てきたつもりやってんけど」 「おかずをまだ作ってないから、じゃ、手伝ってくれる? その前に、コーヒーでも飲めへん。ちょっと休憩」  その椅子に座って、と促されて私は腰を下ろし、彼女が冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを出す後ろ姿をなんとなく見ていた。彼女は、確か週に一度、地元の婦人会のボランティアでパッチワークを教えていた。その彼女の手製なのだろう、キッチンのいたるところにパッチワークが使われている。ランチョンマット、鍋敷き、鍋つかみ、埃《ほこり》よけのつもりか、お菓子入れの籠《かご》や水切りかごの上にもパッチワークが被せられている。流しの脇には、スーパーの回収ボックスに持っていくのだろう、切り開いて洗われた牛乳の紙パックがいくつも干されていた。 「はい、どうぞ」  彼女はそう言ってグラスをテーブルに置き、前に座った。 「お母さんは最近、どないしてはるの?」 「おかげさまで、ぼちぼち元気」 「そう」  家族ぐるみの付き合いが盛んだったのは、私や和也が小学生だった頃あたりで、その後、母親どうしは次第に疎遠になっていったのだ。 「綾ちゃんも、もうそろそろお嫁さんになってもいい歳やし、お母さんも心配してるでしょ」 「どうかなあ」  結婚して早く家を出ていきなさい、とはよく言われている。そして、いい加減に和也くんには見切りをつけなさい、と露骨に言われることもある。和也が無職であるということを、近所の噂で知ったのか、母親はなぜか知っているのだ。 「でも、綾ちゃんが結婚したら、お家が寂しくなるよねえ。お二人になるんやし。それとも、ご養子さん、取らせたいんちゃうの?」 「まさか。そんな大層な家ちゃうし。そうそう、それより、桃、持ってきてん。冷やしといたほうがいいよね。冷蔵庫、勝手に開けていい?」  あからさまに話を逸らせたことに少し気が引けながら、私は足下においた手提げバッグの中から桃の入った袋を取りだし、立ち上がった。その時、ぱたぱたと階段を下りる足音が聞こえ、和也がのそりとキッチンに入ってきた。 「あれ、来てたんや」 「うん。もうだいぶ前からお邪魔してるよ」 「さっき、チャイムの音が聞こえへんかったの? なかなか下りてけえへんと思ったら」 「ごめん。寝てて気ぃつけへんかった」  和也が冷蔵庫の扉を開けたので、ついでに桃を入れてもらい、彼はミネラルウォーターのペットボトルを取りだし、そのまま口をつけて飲んだ。そして、げぽっと小さなげっぷをした後、「ビールでも買ってこようか」と母親に声をかけた。 「頂きもののワインやけど、ほらそこに冷やしてるやろ」 「ああ、あるある」と、冷蔵庫の中を覗き込んだ和也は、「綾ちゃん、ワインでええ?」と、まだ少し寝惚けたような顔で言った。 「うん」 「ほな、二階におるから、用意できたら呼んでよ。どうせ俺がおっても、邪魔なだけやろうし」  和也はそう言って、キッチンから出ていった。母親は、「じゃ、そろそろ始める?」と言いながら、椅子から立ち上がる。まるで嫁だな、と私は心の裡でちょっと笑った。彼女にとっては、死んだ娘の代わりということもあるのだろう。  ぎゅうぎゅうに食材の詰まった冷蔵庫をちらっと見た時に予測はついたのだが、案の定、小一時間後にはまるでホームパーティーでも始めるのかといった具合に、たくさんのおかずが出来上がった。 「じゃ、綾ちゃん、そっちのリビングのほうのテーブルに運んで」  いそいそとした笑顔を見せて彼女は言う。  こんなふうに日々を過ごしていけるのなら、それでいいのかもしれない。彼女の笑顔を見ていると、そんな気にもなる。だが、何か月前だったか、やはりこんなふうに三人で食事をした時もそうだったのだが、全く屈託なく会話をしているという雰囲気には、どうしてもなれないのだ。  三人の顔が揃えば、母親は、どうせ無駄だと思いつつも、やはり何か言いたくなってしまうのだろう。その彼女の言葉の端々から、このままでいけるものならと思い、このままでいけるはずがないとも感じているであろうことは見当がつく。私も同じように、その二つの思いの間を揺れながら、日々を過ごしているのだ。この母親が死ぬ日だって、いずれ訪れる。彼女は彼女で、私がいずれ他の男と結婚するのではないかと案じているのかもしれない。そして、彼女も私と同じように、廃屋でぽつんと一人座っている和也の姿を、つい想像したりしているのかもしれない。  いっそのこと結婚してしまえば、と思うことだってある。もう数年も前から、私たち二人は開きも縮みもしない距離を保っているが、あえて結婚という言葉を出せば、なんらかの変化が生まれるのかもしれない。  だが、まるで死人のように何の意欲も欲も感じさせない和也が、私はやはり怖いのだ。  付き合い始めた頃は、ただ有頂天だった。和也の父親と妹が事故死した時には、まるで自分が家族の一員であるかのように、和也親子に心を寄り添わせていたと思う。就職活動をしようとしない和也を心配し、就職先も決めないまま大学を卒業した彼にやきもきして何度も話し合ったりもした。片桐と付き合い始めても、和也と別れることはできなかったし、やはり私には和也しかいないと思ったものだった。  そして今は、ただもう和也を見ているしかなくて、見ているうちに、漠然とした不安が拡がってゆく。  いったい、いつからこんなふうになってしまったのだろう。  事故当時の和也は、むしろ、しっかりしすぎるくらいにしっかりしていた。憔悴《しようすい》しきった母親を気遣い、葬式だの他の雑事だのをてきぱきとこなして、とても私と同じ高校二年生とは思えないほどだった。明るくて優しくてしっかりしているという子どもの頃のイメージはそのままで、さすが和くんだ、などと思ったものだった。  大学時代に特に何があったという記憶はない。同じ大学ではなかったから全てを知っているとは言えないが、最初は、就職活動をしようとしない和也を不審に思っただけだった。ただ、この不景気だから、まともに活動をしても内定を取れない同級生もいたし、和也だけが外れているといった印象もなかったのだ。  だが、学校を卒業してからの、この七、八年、和也の生活は全く変わらない。適当に時間を潰す毎日が延々と続くだけなのだ。  会社員生活をしている私だって、変わらない生活を送っているといえばそうなのだが、和也のような生活をしていれば、焦ったり、開き直ろうとしてみたり、なんらかの心の動きがありそうなものだ。それなのに、彼は毎日、ただ淡々としていて、私はそれが怖かった。まともなフリをして、どんどん人間離れしていっているんじゃないだろうか。  料理をテーブルに運び終わり、階段の下から、和くん、と呼ぶと、ドアが開く音が聞こえて、のそりと和也が出てきた。たるんだ瞼《まぶた》、どこを見ているのか分からないような淀んだ目。少なくとも子どもの頃は、光を宿した力のある目をしていたはずなのに。  階段を下りてきた和也に、何をしてたの、と癖のように、つい聞いてしまう。 「不動産屋から、新しい入居希望者が見つかったって電話があったから、ちょっと話してた」 「へえ。どんな人」 「長期の単身赴任のサラリーマン。固いよ。こないだの水商売のおねーちゃん、断っといて良かった」  和也はぼりぼりと首筋をかきながら、リビングに入ってゆく。  私立中学の教師をしていた和也の父親は、地所とその上に建つ三つのアパートを親から継いで、その経営もしていたのだ。と言っても、古くから付き合いのある地元の不動産屋と管理会社に実務は任せていたから、古びてしまったアパートを建て替えた時には何かと忙しかったようだが、それ以外には、年に数度あるかないかの入居者の入れ替わりの際の業務連絡と銀行口座の管理ぐらいしか、経営者としての仕事はないようだった。教師という本業の片手間にでも、充分こなせる程度だったのだ。父親が事故で亡くなってからは、不動産屋も管理会社も、中年女性よりはしっかりした高校生の息子のほうが話が早いと踏んだのか、和也に連絡を取るようになり、それ以来、和也がもっぱら電話を受けている。三月に確定申告に行くのも和也で、母親と和也の、どっちが経営者でどっちが従業員ということになっているのかまでは知らないが、年に数度の電話連絡を受けるだけとはいえ、和也は、とりあえずアパート経営の仕事をしているということにはなるのだ。そして、経営の規模を拡大していこうとするでもなく、そこそこの生活を維持できるだけの金を稼いでいる。  和也の後についてリビングに入ると、和也の母親は、ワイングラスを三つの席にいそいそと置いていた。単純に楽しい食事になるとは決して思えないはずなのに、彼女はそれでも、こうして三人で食事をすることに拘《こだ》わりを見せる。和也は、超然と言っていいくらいに、いつも変わらない。 「ほら、綾ちゃん、座って」  彼女は、和也の隣の席を私に勧め、彼女自身は私たちの向かいに座った。和也が三人のグラスに白ワインを注ぐ。 「はい、乾杯」  彼女は軽くグラスを持ち上げて、柔らかく微笑んだ。母親のこういう姿を見てちょっとでも切なくなったりしないのか、と和也を少し憎くなる。  テーブルには、ちらし寿司の他に、金目鯛と茄子の揚出し、かにどうふ、えびと生ゆばの吸い物などが並んでいる。 「それにしても、豪華やわ」 「そう? 綾ちゃんが来てくれた時くらい、張り切って食べたいからねえ。いつもは、和也と二人きりやから、どうしてもいい加減になってしまうんよ」  このきんぴらの白和えもすごくおいしい、としきりに小鉢に箸を入れていると、そう、お代わりもあるからね、と微笑みながら、 「綾ちゃん、このごろ、仕事のほうはどうなん? 忙しいの」  と、彼女は尋ねてきた。 「うーん。まあ、ぼちぼち」 「そう。綾ちゃんは偉いねえ」 「偉いも何も、単に普通に働いてるだけやから」  と言った後で、うまく誘導されたなと気づいた。 「和也も、普通に働いてくれたらええねんけどねえ」 「働いてるやん」  和也は金目鯛の身をほぐしながら、しらっと応える。 「和也の仕事なんか、働いてるうちに入れへんわ」 「そうかなぁ」  と受け流した和也は、ほぐした身をしきりに口に運んだ。彼女は、そんな息子をじっと見つめたまま、機械的に箸を動かした。  もう何年も前に、私も念仏を唱えるように「働けば」と繰り返していたことがあった。しつこく食い下がる私に、「税金も年金も払ってるし、生活費も賄《まかな》えてる。それ以上に働く意味はあるの?」と和也は言い、うんざりとした顔を見せた。 「せやかて、そんなふうに毎日家でだらだらしてても、仕方ないやん」 「毎日働いてたら、なんか、ええことあるの?」 「例えば、やりがいとか……」  そう言いながら、私だって、仕事に生き甲斐ややりがいを感じているわけでも求めているわけでもないな、と思い、言葉に詰まった。 「とにかく、働いてみんことには分かれへんやん?」 「俺は今の生活に充分、満足してんねん。もうええやん、その話は」 「もしかして、ずっとこのままいくつもり?」 「さあ。先のことなんて、分かれへんよ」 「じゃあ、せめて、なんかしたいこと、ないの?」 「毎日、したいようにしてるよ」 「和くんは贅沢やわ。みんな、働いてるのに。もしあのアパートがなかったら、和くんかて、働いてたはずやで」 「かもしれへん。でも、もし、ってのを言い出したら、きりがないで。もしあの時、俺が妹に付いていってたら、俺はとっくに死んでて、働くも何もないんやし。結局は、現実が全てやろ」  アパートの仕事を和也から取り上げてみたら、と和也の母親と相談したこともあったが、実際は、不動産屋も管理会社も、和也しか相手にしようとしないのだ。 「なんか、明治時代の高等遊民みたい。じゃあさ、持てる者の悩みって、和くんにはないの?」 「持てる者が悩むことのほうが、傲慢や。それとも、悩んで、アパートをどっかに寄付でもしたらええの」 「ああ言えばこう言うねんから」 「綾ちゃんが言うからや。応えへんかったら、むくれるくせに」 「誰のために言うてると思ってるの」 「誰のためやの?」 「え?」 「俺のためやって言うんやったら、ええよ、心配してくれへんでも。俺、なんか問題ある?」  過去の一時期、しじゅう同じような会話を繰り返していたのだ。そして、「そんなふうに生きてることに意味はあるの」と言い、ちょっと言いすぎたかと後悔した瞬間、 「生きてる意味って、生きてることそのものやと思うよ。それより、せっかく会ってるのに、こんな話ばかりしてたら楽しくないやん。それこそ意味がないよ」  と言われ、私は途方に暮れた。  そして、次第に何を言う気も失せていったのだ。今はただ見ているだけだった。  だが、母親とはそういうものなのか、それとも彼女が根気強いのか、和也の母親は、もう何年も同じことを言い続けている。 「せっかく良い大学出てるっていうのに」  私をほぼ身内と心得ているのか、彼女は臆面もなくそう言って、息子にはっぱをかけている。ごめんごめん、と薄く笑いながら、和也はかにどうふを蓮華ですくっていた。 「私やったら、こんだけうるさく言われたら、いい加減、適当にでも働き口を見つけるけどねえ。もう、この根気強さは、いったい誰に似たんだか」  母親の言葉に、和也はまたくすっと笑った。 「笑い事ちゃうよ。心配してもらえるうちが華やねんで」  母親は深いため息を漏らす。彼は、一瞬、小馬鹿にしたような表情を鼻先に浮かべ、それをふわりと掻き消した。そんな余裕を見せられるのも、こうして心配している人がいるからじゃないか、と私は心の裡で思わず毒づいた。そしてふと、和也など独りぼっちになってしまえばいい、と思った。孤独だ、なんて言いながら、あっさり自殺してしまうんじゃないだろうか。和也なんて、何も分かっていない。 「ねえ、綾ちゃん。綾ちゃんも、困るよねえ」 「は?」 「綾ちゃんだって、和也がしっかりせえへんかったら、困るでしょ」 「ええ、まあ」 「綾ちゃんに矛先向けることないやん。関係ないんやから。この話は今日はこれくらいでええんちゃうの」  さも、もう気がすんだでしょう、と言いたげな口吻《こうふん》だ。 「関係ないことないよねえ、綾ちゃん」 「綾ちゃんかて、子どもじゃないんやから、自分の思うようにしてるよ」  その言葉を聞いた母親はふっつりと口を閉ざし、それからは三人の咀嚼《そしやく》の音だけが妙に響く静かな食事が続いた。  彼女を手伝って後片づけをすませ、二階の和也の部屋に上がると、先に上がっていた和也は、すでに眠たげな顔つきでテレビを見ていた。 「今日も、なんか悪かったな」 「ううん、べつに。それより……」 「ん? 何?」 「私って、自分の思うようにしてるのかな」 「どないしたの、綾ちゃんまで」 「せやかて……」 「もし思うようにできてないなら、したらいいやんか。俺が綾ちゃんの首に縄をつけてるわけじゃない。三人で食事をするのが嫌なら、断ってよ」 「なんでそんな冷たい言い方するの。そんなことを言うてるんちゃうよ」 「じゃあ、何?」 「何って……」 「ほんまに綾ちゃんの好きにして。俺は何も言わないから」 「ほんまに好きにしてええの?」 「ああ、ええよ」  私は部屋を飛び出した。玄関を走り出ようとした時、母親の「綾ちゃん、どないしたの」という声が聞こえたが、立ち止まれなかった。小さな門を出て、踏切まで走り、そこで立ち止まったが、誰も追いかけては来なかった。しばらく待って、我ながらいじましいと思いながら、和也の携帯に「もう会わないから」とメールを打ってみた。そのまま、上りと下りの電車が数本、通り過ぎたが、返事はなかった。もう限界なのだ、と自分に言い聞かせた。それからまた、数本の電車を見送った。ようやく家に帰り着いても、和也からの返事はなかった。  和也に会わないまま、三カ月近くが過ぎようとしていた。  初めのうちは、メールの返事がくるかもしれないと、そればかり思っていた。最後に会ってから二十日を過ぎる頃には、和也がいなくても結構過ごせるじゃないかと思った。すると変な自信が湧いてきて、二十一日、二十二日、二十三日と数えながら、着ているものが秋物になり、もうこのまま和也なしで私はやっていけるのかもしれない、と思うようになった。  それなのに、こないだ、花ちゃんや他の同僚と京都大原の紅葉を見に行った時、なんだか自分が抜け殻になった気がして、紅葉の美しさがまるで体をすり抜けていくようだったのだ。心配や不安の種がなくなってせいせいするかと思っていたのに、実際は、その種がなくなってしまえば、私の体はからっぽになってしまったようだった。何をどう感じ、どう思えばいいのか、よく分からなくなっていた。そもそも、会社の連中と出かけようなど、私はよほど寂しいのかもしれない。  互いの家の距離は歩いて十分ほどなのに、こんなにも会わないものかと改めて思った。そういえば、家が近いはずの小学校や中学校の同級生など、偶然出くわすどころか、消息すら知らない人が多い。和也もその一人になってしまうのだろうかと思うと、いても立ってもいられない気持ちになった。  寂しくてどうしようもない。そう思い始めると、そればかり思うようになった。寂しいと思った途端、その寂しさがどうにも恐ろしくて、一人では耐えられないような気がした。  ごめん、電話してしまった。  そう言うと、和也は、「かめへんよ。どないしたの」と、何事もなかったような声で言った。 「なんか、寂しくて」 「そっか。大丈夫?」 「あんまり大丈夫じゃない」  くすっと小さく笑う声が聞こえた。 「久しぶりに会う?」 「……どうしよう」 「俺はどっちでもいいよ」  その言葉を聞いた途端、なぜかふいに思ったのだ。あなたが傷んでいくところを、私がずっとずっと見ていてあげる。 「じゃあ、会って」 「これから、家に来る?」 「おばちゃんに会いづらいよ」 「そっか」 「……公園に来てくれる? 踏切の手前の」  夜の公園には、ぽつぽつと淡い街灯が点っていた。道に面したほうのツツジの植え込みの近くには、三つ四つのベンチがあって、そのうちの一つに黒い人影が横たわっているのが見えた。  小さな噴水を挟んだ反対側のベンチに座って、和也を待った。五分もしないうちに、後ろから砂を踏む足音が聞こえ、綾ちゃん、と声がした。振り向く間もなく、和也は私の隣にすとんと座った。 「待った?」 「ううん」 「久しぶり」 「うん」 「仲直りしよっか」  なぜか、ははは、と和也は乾いた声で笑った。その声にひやりとして和也の横顔を見た。全く変わらない、そう思った。三カ月前とちっとも様子の変わらない和也が恨めしかった。私は少し痩せたせいか、ブーツの中の足が泳いでいる。  いたたまれない思いで、立ち上がった。街灯の光の中に、私の影がゆらりと背を伸ばす。「仲直りしよっか」と笑う和也に対して、返す言葉が見つからない。自分が何を望んでいるのか、どうしたいのかもよく分からなくなっていた。少し頭を冷やそう、そう思って噴水のほうへ歩きかけた時だった。  また戻ってきたな。  後ろからそう聞こえた気がした。 「え、なに?」  振り返ると、和也の笑顔がじっとこっちを向いていた。  見られているのは、私のほうかもしれない。 小川内初枝(おがわうち・はつえ) 一九六六年、大阪府生まれ。大阪府立大阪女子大学国文学科卒。二〇〇二年、第十八回太宰治賞受賞。著書に『けもの道』『求愛ダンス』『恋愛迷子』がある。 本作品は二〇〇七年六月、ちくま文庫の一冊として刊行された。 なお電子化にあたり、解説は割愛した